日本大百科全書(ニッポニカ) 「女帝」の意味・わかりやすい解説
女帝
じょてい
女性の君主(皇帝、天皇、王)のこと。女王。また一般に権力を有し権勢をほしいままにする女性をさす。日本では、第14代とされる仲哀(ちゅうあい)天皇の后(きさき)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)(神功(じんぐう)皇后)は、夫の死後、朝鮮進出を断行し、69年間政治をとったと『日本書紀』に記され、『風土記(ふどき)』では天皇とよばれている箇所がある。市辺押磐(いちべのおしいわ)皇子の娘飯豊青(いいとよあお)皇女は、第22代とされる清寧(せいねい)天皇没後1年間皇位についたといわれ、神功皇后同様天皇の称号を用いた史書もあるが、ともに伝説上の人物である。歴代天皇のなかでは、第33代とされる推古(すいこ)(在位592~628。以下同じ)、第35代皇極(こうぎょく)(642~645)、第37代斉明(さいめい)(655~661。皇極重祚(ちょうそ))、第41代持統(じとう)(686~697)、第43代元明(げんめい)(707~715)、第44代元正(げんしょう)(715~724)、第46代孝謙(こうけん)(749~758)、第48代称徳(しょうとく)(764~770。孝謙重祚)、第109代明正(めいしょう)(1629~1643)、第117代後桜町(ごさくらまち)(1762~1770)が女性であった。このうち実際政治に携わったのは持統天皇くらいである。日本の女帝は、先代の天皇が没したあと、すぐ即位できる適当な皇位継承者がなかった場合、先代天皇の皇后、皇女あるいは皇太子妃などが即位した例が多い。7~8世紀に女帝の出現が多かった理由は、皇室自体が王家として成熟していなかったためと考えられる。一方、大和(やまと)朝廷成立以前の2~3世紀ごろ、女王卑弥呼(ひみこ)が支配する邪馬台(やまたい)国があった(『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』)。邪馬台国の場合、女王は鬼道(呪術(じゅじゅつ))を用いて人心を支配し、実際の政治は男王が行っていた。また琉球(りゅうきゅう)王国(沖縄県)では、第二尚氏(しょうし)王統時代(1470~1866)まで、政治的実権を握る男王のほかに宗教上の最上位にたつ女性聞得大君(きこえおおぎみ)がいた。邪馬台国や琉球王国と天皇制下の女帝とを単純に比較してはならないが、男王と女王との連立即位をヒコ・ヒメ制とよび、日本古代王政の特徴とする説もある。
中国では、史上女帝はただ1人しか出現しなかった。唐の皇帝高宗(こうそう)の皇后で、夫の死後国号を周に改め自ら即位し聖神皇帝と称した則天武后(そくてんぶこう)(在位690~705。以下同じ)である。彼女は新興の科挙官僚や地主層の支持を得、対立する勢力を容赦なく弾圧したが、即位後は文教政策を進めた。古代エジプトでは、ハトシェプスト(前1501~前1480)以来女帝の即位例が多い。とくにプトレマイオス朝のクレオパトラ7世(前51~前30)は、ローマ皇帝カエサルの愛妾(あいしょう)として、またアントニウスの妻として知られ、美貌(びぼう)と才知そして権勢欲を兼ね備えた典型的な女帝といえる。エジプトは元来母系制の強い社会だったので、多くの女帝が出現したといわれる。西洋ではその後、女帝として際だった存在はない。わずかに東ローマ帝国皇帝レオ4世Leo Ⅳ(749―780、在位775~780)の妃で、陰謀のすえ帝位についたイレーネ(在位797~802。以下同じ)が知られている。中世から近代に移行すると、西洋各国に著名な女帝が輩出する。カスティーリャの女王としてスペイン国家を統一し、1492年コロンブスの新大陸発見を援助したイサベル1世(1474~1504)、イギリス・チューダー朝の「処女女王」エリザベス1世(1558~1603)、神聖ローマ帝国の女帝としてドイツ、オーストリア、ハンガリーに君臨したマリア・テレジア(1740~1780)、ロシア帝国皇帝ピョートル3世の妃で、のちに夫を死に追いやり帝位についたエカチェリーナ2世(1762~1796)などがそれである。彼女たちは共通して、美貌、教養を備えたのみならず、啓蒙(けいもう)的、進歩的であった。閉鎖的な中世世界から脱却しつつあった西洋の人々が、彼女らを熱狂的に支持したのも、その進歩性ゆえであったろう。宗教改革の嵐(あらし)が吹き荒れていたこのころ、女帝の姿が慈愛あふれる聖母マリアの再来として迎えられたのも事実であった。
20世紀以降、女王が在位した国としては、イギリス―エリザベス2世(在位1952~2022)、オランダ―ベアトリックスBeatrix(1938― 、在位1980~2013)、デンマーク―マルグレーテ2世Margrethe Ⅱ(1940― 、在位1972~ )などがある。
[水谷 類]