郡山村(読み)こおりやまむら

日本歴史地名大系 「郡山村」の解説

郡山村
こおりやまむら

[現在地名]郡山市大町おおまち一―二丁目・中町なかまち本町もとまち一―二丁目・駅前えきまえ一―二丁目・松木町まつきちよう芳賀はが二―三丁目・石淵町いしぶちまち方八ッ町ほうはつちよう一―二丁目・谷島町やしままち向河原町むかいがわらまち赤木町あかぎまち清水台しみずだい一―二丁目・堂前町どうまえまち堤下町つつみしたまちいけだい麓山はやま一―二丁目・細沼町ほそぬままち虎丸町とらまるまち神明町しんめいちよう咲田さくた一―二丁目・若葉町わかばちよう桜木さくらぎ一―二丁目・西にしうち一―二丁目・桃見台ももみだい長者ちようじや一―三丁目・豊田町とよたまち緑町みどりまち並木なみき晴門田はれもんだ榧木かやのき古坦こたん幕内町まくうちまち宮田みやた稲荷いなり燧田ひうちだなど

現市域の中央部、阿武隈川西岸、逢瀬おうせ川南岸の平地に立地。地名は古代安積あさか郡の郡衙があったことに由来し、清水台遺跡が郡衙跡と推定されている。古くから交通の要衝で、江戸時代には奥州道中の宿場町として賑わい、また安積郡の商業中心地として栄えた。天保郷帳には郡山宿とある。

永享一一年(一四三九)頃のものと推定される安積三郷田地注文(相殿八幡文書)に、中郷のうちとして「郡山 四丁」とみえる。天文一二年(一五四三)田村隆顕は伊達氏の天文の乱に乗じて安積郡の蘆名・伊東両氏を攻撃、郡山のほか荒井あらい名倉なぐらなど計六ヵ所を攻め取ったという(観集直山章)。同二〇年安積郡をめぐり抗争してきた田村氏と蘆名氏の講和が成立し、郡山・小荒田こあらだ下飯津島しもいづしま前田沢まえたざわの四ヵ所が、田村氏から蘆名氏に明渡された(同年七月一一日「蘆名盛氏証状」白河証古文書など)。なお逢瀬川南岸の台地上にあったとされる郡山城(稲荷館・茶臼館ともいう)は永享年間に安積伊東氏の築城と伝え(相生集)、戦国期には安積伊東氏末流郡山氏が拠っていた。天正一六年(一五八八)六月から七月にかけて、伊達氏の軍と佐竹・蘆名・二階堂ら諸氏の連合軍が当地を主戦場として戦った際(郡山合戦・夜討川の合戦)、郡山城主郡山太郎右衛門朝祐(頼祐)は伊達方に属して奮戦(「伊達天正日記」同年六月一四日条ほか)

郡山村
こおりやまむら

[現在地名]郡山町郡山

現郡山町の中央部に位置し、南は鹿児島市小山田こやまだ町、北は八重やえ(六七六・八メートル)を境として薩摩郡入来いりき町に接し南北に長い。南半分は南流する甲突こうつき川流域の盆地、北半分は八重山を頂点とする山地・丘陵地帯。甲突川と同川支流の油須木ゆすき川が合流する地域は江戸時代郡山郷の麓集落で、郷政の中心地であった。集落は河川流域に北から上之丸かんのまる小浦こうら大浦おおうら茄子田なすびだ上常盤かみときわ清和せいわ坪久田つぼくだ中福良なかふくら賦合つもりあい上園うえそん柿木平かきのきびらがある。中央部を雑田ざつだ川が南流し中福良で甲突川に合流している。古代には日置郡の郡衙が置かれたと推定されている。

〔中世〕

満家みついえ院に含まれた。薩摩国建久図田帳に満家院院司は業平とみえる。加治木氏系図(地誌備考)によれば、恒平が建保二年(一二一四)に郡山村を安堵され、その子良平が郡山氏を名乗った。しかし加治木氏は承久の乱で後鳥羽上皇方についたため勢力を失い、院司職・厚地山あつちやま座主職は大隅の豪族税所氏の手に移ったという。延応二年(一二四〇)八月二二日の比丘尼菩薩房・生阿弥陀仏連署田畠去状(比志島文書)に、満家院西俣にしまた名内八世井浦の四至について東は「郡山堺」を限るとみえる。建治三年(一二七七)五月一〇日、郡山の田畠・在家・山野などについて満家院郡司税所義祐は満家院地頭島津道仏(忠時)後家尼代子息長久と加治木郡司氏平を訴えている(「関東御教書」町田氏正統系譜)。弘安八年(一二八五)一〇月二五日には島津長久代沙弥静信が、税所篤秀によって満家院郡司職と郡山以下の村々を掠取されていると訴えている(「静信申状」同系譜)。正応元年(一二八八)六月七日、郡司税所篤秀は郡山を含む七ヵ村の下地を引渡し、得分米五〇石・請料小袖三両および厚地山寺の巻誦用途三貫文を地頭方に支払うとした内容で和与している(「税所篤秀和与状」比志島文書)

郡山村
こおりやまむら

[現在地名]鈴鹿市郡山町

中瀬古なかぜこ村の西、なかノ川南岸の台地上にある。周辺一帯は遺跡が多く、地名からも古代奄芸郡家の所在地に比定される。当地酒井さかい神社所蔵文書のなかの保延五年(一一三九)一一月二八日付、散位高階朝臣から「栗真御庄下司安親并公文為国等所」に宛てた下文に、郡山新宮(酒井神社)に対し田三反寄進のことがみえ、この地が栗真くるま庄内であったことがわかる(→栗真庄。また暦応三年(一三四〇)三月二日付で沙弥真宗が郡山大明神神主に宛てた渡状(酒井神社文書)にも「栗真庄染野郷内郡山大明神神主知行之雑給名并屋敷事」とある。なお「吾妻鏡」元暦元年(一一八四)五月一五日の条に、志太三郎先生義広が源頼朝に背き、羽取はとり山で討たれたことを記すが、この羽取山を郡山南方の大野おおのにあてる説もある。

郡山村
こおりやまむら

[現在地名]白石市郡山・寿山ことぶきやま

さい川が白石川に合する地域に位置し、東半分は丘陵地、西半分が低湿な沖積地帯である。東は大町おおまち村・犬卒都婆いぬそとば村・鷹巣たかのす村、北はうるい坂一帯の丘陵地で小下倉こしたぐら村、西・南は白石本郷に接する。「大日本地名辞書」は「古の郡家址なり」として地名の由来とするが明らかではない。天文七年(一五三八)の段銭古帳に「十貫三百五十文 こほり山」とある。また同帳に「壱貫七百五十文 ゑふくろ」とある地名は「伊達正統世次考」天文一二年八月二一日条にある「小原藤五郎所売於掃部丞之地餌袋郷内千刈田」の餌袋えぶくろ郷と同じで、蒲生氏領時代には当村の一部に統合され、明治一八年(一八八五)頃まで小字「江袋」として残った。

郡山村
こおりやまむら

[現在地名]茨木市郡山一―二丁目・新郡山しんこおりやま一―二丁目・宿川原しゆくがはら町・郡山

こおり村の西にあり、西の千里丘陵から緩やかに傾斜した地形に立地。北端を西国街道(山崎通)が東西方向に通り、また郡村で亀山かめやま街道に合流する道が、西国街道から分れて村内を斜めに横切る。「私心記」永禄三年(一五六〇)二月二五日条に、有馬ありま(現神戸市)へ湯治にいった帰り「瀬河ニテ中食シ候、郡山マデ辿来候」とみえ、西国街道の東の山崎やまさき宿(現三島郡島本町)、西の西宮にしのみや宿(現兵庫県西宮市)のほぼ中間に位置する郡山宿は、道祖本さいのもと宿河原しゆくがわらを中心に街道沿いにのびていた。

郡山村
こおりやまむら

[現在地名]平田町郡山

桜林さくらばやし村の東にあり、南は堀野内ほりのうち村。村南東から大町おおまち堰が北流する。地名は飽海郡衙があったことに由来すると推定される。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高一〇五石余。寛永元年庄内高辻帳では高二四六石余。同年の元和以来色々調(飽海郡誌)では家数八。寛文九年(一六六九)の検地帳(小松原文書)によれば田畑合計二〇町六反余、高二五一石余、名請人一八、最も保有地の広いのは庄右衛門三町三反余、次いで甚助二町九反余、小兵衛二町七反余、万五郎二町三反余、佐左衛門・次郎兵衛とも二町一反余、庄兵衛二町余で、以下一町以上二町未満一、五反未満一〇。

郡山村
こおりやまむら

[現在地名]河東町郡山

北東は金道こんどう分、北西は郡山新村。村名から平安時代初期の会津郡衙所在地ではないかという説があるが、確証はない。古くは内条郡山うちじようこおりやま中条郡山なかじようこおりやま南郡山みなみこおりやまの三村であったが、慶安二年(一六四九)一村としたという(新編会津風土記)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高一千二二二石余で高長三郎二五〇石、高木彦右六二五石余、道家孫一郎三四六石に分けられている。

郡山村
こおりやまむら

[現在地名]大野町郡山

矢田やだ村の北西、平井ひらい川北方の台地上にある。当村の字保多田ほただは延応二年(一二四〇)四月六日の尼深妙惣配分状(志賀文書)にみえる大野庄なか村内保多田名の遺称地。また字臼迫きゆうさこは天正一〇年(一五八二)四月九日の酒井寺神伝藤北方臼迫分諸公事調注文(伊東東馬文書)にみえ、同所の田地四段・畠地一町、米一石の諸公事として、納所二貫文・麦地子一石五斗・大豆一石二斗、毎月加用一五日、陣夫一人(たちかへり有)、正月円鏡一重・五月竹子一束・八朔小莚一枚・一二月杖木一束・たたみ一畳・納苧二目が臼迫殿に課せられている。

郡山村
こおりやまむら

[現在地名]仙台市郡山・郡山二―八丁目・諏訪町すわまち太子堂たいしどう東大野田ひがしおおのだ

広瀬川左岸の沖野おきの村の南西、同川右岸および名取川左岸に挟まれた自然堤防上に立地する。北・西方は平岡ひらおか村、南西は大野田村。近年郡山遺跡の発掘調査により、七世紀後半―八世紀前半にかけて造られたとみられる官衙および寺院跡が発見され、名取郡衙跡とも考えられるが、多賀城以前の国府跡あるいはそれに類する国家施設とする説もある。広瀬川右岸の北目きために中世の城館跡北目城があり、戦国期に国分氏一族として名取郡北方きたかたを領していた粟野大膳の古館であったという(観蹟聞老志)

郡山村
こおりやまむら

[現在地名]南陽市郡山

現在のJR奥羽本線赤湯あかゆ駅を中心とする地域で、いわゆる宮内みやうち街道大橋おおはし―宮内の中間に位置する。村名と米沢盆地の条里の遺構、蒲生田かもうだ山麓の古墳などから、置賜おきたま郡衙所在地と推定する説がある。伊達氏時代に矢ノ目市三郎の館があったとの伝えもあるが、青木家屋敷に礎石らしきものがあるだけで明確でない(沖郷村史)。天正一三年(一五八五)の北条段銭帳によると「北条こほり山之内、きたの在家」のほう助九郎は、二千刈役として段銭五〇〇文を納めている。

郡山村
こおりやまむら

[現在地名]東根市郡山

みだれ川扇状地の扇端部、西流する村山野むらやまの川の北側に位置し、西は野田のだ村に接する。仁和二年(八八六)最上郡を分けて村山郡が置かれたが、その郡衙の置かれたのが当地とされ、村名は郡衙所在にちなむ。延享二年(一七四五)の郡山村小山田藤左衛門による郡山村立始覚(小山田文書)によれば、慶長元年(一五九六)東根村から出郷、当時は「小田島之庄白水之郷郡山村」といい、東根城主の一族里見掃部の知行地であったという。その後最上氏領から元和八年(一六二二)山形藩領、寛永一三年(一六三六)幕府領。寛政一二年(一八〇〇)以降高畠藩(のち天童藩)領。

郡山村
こおりやまむら

[現在地名]双葉町郡山

太平洋に面した海岸線は断崖が続き、西の新山しんざん村に接する所が低地で良田となる。南の細谷ほそや村との間に南迫みなみさく新田がある。村名は古代の標葉しねは郡衙の設置によると考えられている。寺沢の仲禅てらざわのちゆうぜん寺蔵の木造十一面観音の康永二年(一三四三)六月六日の胎内銘に「郡山四郎」「下郡」などの人名・地名がみえる。総士禄高調の文禄二年(一五九三)の項に「弐貫四百三十六文 郡山左馬亮」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報