千里丘陵(読み)せんりきゅうりょう

精選版 日本国語大辞典 「千里丘陵」の意味・読み・例文・類語

せんり‐きゅうりょう ‥キウリョウ【千里丘陵】

大阪府北西部、箕面・豊中・吹田・茨木の各市にまたがる丘陵。明治四三年(一九一〇)私鉄開通後開発が進み、大阪市郊外の住宅地として急速に発展。その中央部に千里ニュータウンが造成された。万国博記念公園がある。千里山丘陵

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デジタル大辞泉 「千里丘陵」の意味・読み・例文・類語

せんり‐きゅうりょう〔‐キウリヨウ〕【千里丘陵】

大阪府中北部、吹田すいた・豊中・茨木・箕面みのお市にまたがる丘陵。千里ニュータウン・万国博記念公園などがある。

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日本歴史地名大系 「千里丘陵」の解説

千里丘陵
せんりきゆうりよう

大阪平野の北部にある丘陵で、北摂山地と淀川低地との間に半円形に広がる。千里山せんりやま丘陵とよばれてきたが、千里ニュータウンの建設に伴って昭和三〇年代から千里丘陵の名称が一般化した。行政上は吹田すいた市・豊中市箕面みのお市・茨木いばらき市にまたがる。北摂山地とは東西方向に延びる構造性の谷によって隔てられた丘陵は、北部が高く標高一三四メートルに達するが、南へ緩やかに傾斜して末端では四〇メートルほどに低下する。島熊しまくま山・待兼まちかね山・刀根とね(豊中市)などがあり、周囲には高位・中位・低位の三段の段丘が分布している。丘陵内には千里川・天竺てんじく川・たか川・糸田いとだ川・正雀しようじやく川・山田やまだ川・大正たいしよう川などが、九十九谷と俗称される多数の浅い谷をつくりながら放射状に流出する。地質は未固結の粘土・砂・礫からなる鮮新統から更新(洪積)統の大阪層群で構成される。

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改訂新版 世界大百科事典 「千里丘陵」の意味・わかりやすい解説

千里丘陵 (せんりきゅうりょう)

大阪平野の北部に位置する丘陵で,北摂山地と淀川低地との間に半円形に広がる。行政上は吹田市,豊中市,箕面(みのお)市,茨木市にまたがる。北摂山地と東西方向の谷で隔てられた丘陵は,北部が高く標高133.8mを示し,島熊山,待兼山,刀根山などの小丘があるが,南に向かってしだいに低下し,周囲には台地が分布する。千里川,天竺(てんじく)川,高川,糸田川,山田川,大正川などが,丘陵内に多くの浅い谷をつくり放射状に流出する。地層は未固結の粘土,砂,礫(れき)からなる鮮新統から更新(洪積)統の大阪層群で構成され,第四紀地質研究の標準地として著名である。西部地区には古墳が多く,また5世紀末から7世紀にかけての須恵器窯址が丘陵一帯で多数発見され,屈指の須恵器生産地であったことが知られている。平安時代には右馬寮の豊島牧と摂関家領垂水牧が置かれた。

 1910年の箕面有馬電気軌道(現,阪急宝塚線・箕面線),21年の北大阪電気鉄道(現,阪急千里線)の開通によって,沿線の住宅地開発が部分的に進んだが,雑木林と竹林で覆われた丘陵と樹枝状の谷の水田という農村景観が大きく変貌したのは,60年代からである。61年に着手された大阪府企業局による千里ニュータウン(1160万m2。計画人口15万)の造成と,70年にその東隣地区で開催された万国博覧会によって,都市化が急激に進展した。地下鉄御堂筋線につづく北大阪急行電鉄の新設,阪急電鉄千里線の延伸,名神高速道路,中国自動車道,近畿自動車道,大阪中央環状線,新御堂筋線の建設など,新たな交通施設の整備が進み,大阪大学,国立民族学博物館,国立国際美術館,日本民芸館,老人総合センター,循環器病センターや船場繊維卸商団地などが進出し,万博記念公園服部緑地も整備された。ニュータウン周辺でも住宅団地やマンションの建設が相ついだため,丘陵地の原形はほとんど姿を消した。北大阪急行電鉄の終点千里中央駅付近は,デパート,ショッピング・ビル,ホテル,文化ホールが集中し,千里地区の中心となっている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「千里丘陵」の意味・わかりやすい解説

千里丘陵
せんりきゅうりょう

大阪平野の北部、吹田(すいた)、豊中(とよなか)、箕面(みのお)、茨木(いばらき)、摂津(せっつ)の各市にまたがる丘陵。千里山丘陵(せんりやまきゅうりょう)ともいう。地形は北に高く、最高134メートル。南に半円形状に低くなる広大な地形から千里山の名が生じた。大阪層群とよばれる鮮新世末から更新世(洪積世)前半にかけて堆積(たいせき)した砂礫(されき)層と粘土層が交互に重なり合っている。火山灰層を何枚も挟み、上部には海成粘土層が多い。雑木林が多く、一部が竹林や果樹園に利用されていたが、1921年(大正10)北大阪電鉄(現阪急電鉄千里線)が千里山駅まで開通、千里山住宅地が出現し、大阪市の郊外住宅地として開け始めた。第二次世界大戦後、千里ニュータウン(広さ1150ヘクタール、計画人口15万人)がつくられ、丘陵の様相は一変した。1970年(昭和45)には日本万国博覧会が丘陵北東部に開催され、跡地は万国博記念公園となり、国立民族学博物館、自然文化園、日本庭園などがある。

前田 昇]


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百科事典マイペディア 「千里丘陵」の意味・わかりやすい解説

千里丘陵【せんりきゅうりょう】

大阪府,大阪平野の北部,吹田(すいた)・豊中(とよなか)・茨木(いばらき)・箕面(みのお)4市にまたがる丘陵地。溜池(ためいけ),竹林,雑木林のまじる農業地域であったが,阪急千里線の開通などを契機に住宅地化が進んだ。大住宅団地千里ニュータウンをはじめ住宅団地が多く,1970年には丘陵の東端が万国博覧会場となり,万国博記念公園として残っている。国立民族学博物館大阪大学関西大学がある。千里山ともいう。
→関連項目大阪万博千里ニュータウン垂水東牧・垂水西牧

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「千里丘陵」の意味・わかりやすい解説

千里丘陵
せんりきゅうりょう

大阪府北部の丘陵。大阪平野の北をかぎり,吹田市,豊中市,箕面市,茨木市の 4市にまたがる。千里山丘陵ともいう。北摂山地南麓から南にゆるやかに傾斜。標高 30~130m程度。更新世(洪積世)の頃,浅い海底の堆積面が隆起し,その後の侵食によってできた地形で,地表にはかなり平坦面が残っている。侵食谷は水田,ため池,傾斜地は竹林,雑木林,平坦面は畑地,果樹園,竹林などに利用されてきたが,風致のよさと大阪市の過密化の影響を受け,大正中期から宅地開発が進み,第2次世界大戦後は急速に都市化し,千里ニュータウンが生まれた。1970年開催の日本万国博覧会の会場跡の記念公園,大阪大学,船場繊維卸商団地などがある。

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