那珂郷(読み)なかごう

日本歴史地名大系 「那珂郷」の解説

那珂郷
なかごう

和名抄所載の郷。他国の同名郷をみると、那珂は中に通じることから郡の中央に比定する場合が多い。当郷も安八郡の中央部に位置していたと考えられ、「濃飛両国通史」「岐阜県史」「新修大垣市史」などは現大垣市北部中川なかがわ地区および北杭瀬きたくいせ地区一帯に比定し、同地域内の中川・中野なかのなどの地名も郷名に由来するとしている。

那珂郷
なかごう

「和名抄」所載の郷。大宝二年(七〇二)の御野国戸籍(正倉院文書)に載る「各牟郡中里」の故地であろう。和銅六年(七一三)から神亀三年(七二六)にかけての郡郷名の好字への統一、およびそれ以後の郷里制、そして郷制への移行により那珂郷となったものであろう。現在各務原かかみがはら市に那加なか地区があり、諸説一致してそこにあてている。同地区を郷域に含むことは間違いあるまいが、「各務原市史」では班給すべき耕地との関係から、式内社とされる飛鳥田あすかだ神社・加佐美かさみ神社および山田さんでん寺跡・平蔵へいぞう寺跡・野口のぐち廃寺長者屋敷ちようじややしき廃寺など白鳳後半期の寺院跡が集中している同市蘇原そはら地区も含めるべきとしている。

那珂郷
なかごう

「和名抄」所載の郷。高山寺本は「国用中字」と注記する。「播磨国風土記」にみえない。天平一七年(七四五)九月二一日の仕丁送文(正倉院文書)に「播磨国多可郡奈何郷」戸主宗我部老人戸口として宗我部小敷の名がある。平城京二条大路跡出土木簡のうち五点に郷名がみえる。「播麻国多可郡中郷封戸白米□□□五斗」、「□□□(播磨国カ)多可郡中郷(高)田封戸白米」、「(表)播磨国多可郡中郷三宅里」「(裏)日下部漢目庸米六斗」、「(表)播磨国多可郡中郷古□□」「(裏)封戸白□五斗」、「(表)播磨国多可郡那珂郷□并五斗 山直小弓戸二斗 針間直□」「(裏)倭文連高山戸二斗持丁針□天平九年三月卅日」。

那珂郷
なかごう

「和名抄」高山寺本・刊本ともに訓を欠く。「大和志」は「今曰中荘」として左室さむろ村・御薗みその村・喜佐谷きさだに村・菜摘なつみ村・樫尾かしお村・楢井ならい村・宮滝みやたき村など八村をあげ、現吉野郡吉野町の吉野川沿いの地域に比定。

那珂郷
なかごう

「和名抄」所載の郷。諸本ともに訓を欠くが、郡名と同じくナカであろう。「日本地理志料」「大日本地名辞書」とも現美里みさと町東部、志戸しど川沿いの古郡ふるこおり木部きべ中里なかざとの地をあてている。

那珂郷
なかごう

「和名抄」高山寺本・刊本ともに訓を欠く。承平七年(九三七)の信貴山寺資財帳写(信貴山文書)に「平群郡中郷八条十四里」「平群郡中郷九条十四里廿五廿六坪、四至限東公田限 限南谷神所 限西道 限北平隆寺地」とあり、延久二年(一〇七〇)の興福寺雑役免帳によると、なか郷は平群郡八条一三―一四里、九条一四里にわたる。

那珂郷
なかごう

「和名抄」高山寺本・刊本ともに訓を欠く。天元三年(九八〇)とみられる太政官符案(彰考館本栄山寺文書)に「(宇智)郡那賀郷河南三条五灰焼里北辺布師村 四至東限于智川 西限吉野川 南限留□川 北限吉野川」とあるので、吉野川南岸の現五條市まき町・野原のはら町付近が郷域と考えられる。

那珂郷
なかごう

「和名抄」所載の郷。郷名は郡の中心の意味で、和銅八年(七一五)七月二七日、建郡にあたって尾張国から移り住んだ席田君氏、あるいは「続日本後紀」承和七年(八四〇)四月二三日条にみえる国造氏の居所であったかと思われる。

那珂郷
なかごう

「和名抄」諸本は訓を欠く。「大日本史国郡志」「日本地理志料」はともに「越後野志」を引き、郡中央部の上田うえだ庄をその地かとする。

那珂郷
なかごう

「和名抄」諸本とも文字異同はなく、訓を欠くが、郡名から「なか」と読む。現那珂川なかがわちゆう付近にあてる説(太宰管内志)もあるが、現福岡市博多区那珂を中心とする地域に比定される。

那珂郷
なかごう

「和名抄」所載の郷。諸本ともに訓を欠くが通例に従う。諸説の多くは現熊谷市の別府べつぷ上奈良かみなら・下奈良を中心とする一帯とみている。

那珂郷
なかごう

「和名抄」に「那珂」と記され、訓を欠く。「新編常陸国誌」に「按ズルニ今ノ那賀村ナリ」とあり、現那珂郡緒川おがわ村那賀に比定する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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