近衛家実(読み)このえ・いえざね

朝日日本歴史人物事典 「近衛家実」の解説

近衛家実

没年仁治3.12.27(1243.1.19)
生年治承3(1179)
鎌倉前期の公卿。猪隈(熊)殿と号す。近衛基通の長子。12歳のとき後白河法皇の御所で元服し,叙爵。翌年従三位になり公卿に列する。その後も昇進は早く,元久1(1204)年に左大臣,翌々年に摂政,次いで関白となった。以後承久の乱(1221)前後の2カ月半を除いて,安貞2(1228)年まで摂関の地位にあった。ただし政治の実権を握ったのは貞応2(1223)年以降のことである。この年院政をしいていた後高倉上皇が没すると,鎌倉幕府は使者を京都に送り家実への支援を表明,かくて家実の施政が開始される。その政治方針は伝統に回帰することにあり,復古的で消極的な措置がとられた。承久の乱で敗北した朝廷にとり,こうした施政は何の益にもならなかった。綱紀は弛緩し,財政は悪化する一方であった。家実はこうした事態に有効な手段を講じることなく,安貞2年に九条道家に政権をあけ渡す。仁治2(1241)年出家,法名円心。猪隈殿で没した。日記『猪隈関白記』がある。

(本郷和人)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「近衛家実」の解説

近衛家実 このえ-いえざね

1179-1243* 鎌倉時代の公卿(くぎょう)。
治承(じしょう)3年生まれ。近衛基通(もとみち)の長男。左大臣をへて,建永元年(1206)摂政,氏長者となり,同年関白。以後23年にわたり,土御門(つちみかど),順徳,後堀河の3代の天皇の摂政,関白をつとめた。承久(じょうきゅう)3年太政大臣。従一位。仁治(にんじ)3年12月27日死去。64歳。号は猪隈(いのくま)。日記に「猪隈関白記」。

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世界大百科事典(旧版)内の近衛家実の言及

【猪隈関白記】より

…鎌倉時代前期の公家近衛家実の日記。1197‐1217年(建久8‐建保5)の分が陽明文庫に自筆本で23巻残存。…

【宣陽門院】より

…後鳥羽上皇はその子雅成親王を女院の猶子とし,女院領の伝領をねらったが,承久の乱により女院領はいったん幕府に没収され,22年(貞応1)に返付された。その後,女院は近衛家実の女長子を養子とし,26年(嘉禄2)入内させて後堀河天皇の中宮にするなど,家実と結んで政局に介入,九条道家と競ったが敗退し,長子は29年(寛喜1)院号宣下,鷹司院と称した。 女院はすでに16年(建保4)信頼する仁和寺菩提院の行遍を通じ,別当三位家領阿波国宍咋荘を高野山蓮華乗院に寄進していたが,政争に敗退後,行遍への信任を強め,38年(暦仁1)庁分大和国平野殿荘,翌39年(延応1)別当三位家領伊予国弓削島荘を東寺に,同じく周防国秋穂二嶋荘を菩提院に寄進,東寺に供僧設置をはかる長者行遍を援助した。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」