赤池村(読み)あかいけむら

日本歴史地名大系 「赤池村」の解説

赤池村
あかいけむら

[現在地名]稲沢市赤池町・赤池〈居道いみち町・裏田うらた町・陣出じんで町・西出にしで町・旗屋はたや町・前山まえやま町・真崎まつさき町・山中やまなか町〉

南北に長く、南は下津おりづ村に接し青木あおき川が村の東境を流れ、岐阜街道が西境を通る(天保村絵図)

弘安五年(一二八二)浄金剛じようこんごう院領としての尾張国千世氏荘坪付注進状案(醍醐寺文書)に「一、友重伍段 元新上分畠中嶋郡河崎郷赤池村」や「一、赤池村段 已畠中嶋郡北条河崎郷」とみえるのが初見。

赤池村
あかいけむら

[現在地名]那賀川町赤池

三栗みぐりう村の西、那賀川河口部北岸に位置する。南西は那賀川を挟んで横見よこみ(現阿南市)。慶長二年(一五九七)の分限帳には赤池がみえ、高四三八石余が細山(賀島)主水佐知行分。正保国絵図では高四四二石余。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳によると赤地村とあるのが当村にあたると思われ、田方三七九石余・畑方六二石余。文化一〇年(一八一三)の高都帳では高六〇五石余。「阿波志」によると水陸田三四町四反余、高六五四石で、この高には北原きたばら村の高も含まれる。旧高旧領取調帳では蔵入地高四九三石余、高一六八石余は蜂須賀秀之助ら三名の知行。

赤池村
あかいけむら

[現在地名]日進町赤池

西から南にかけては平針ひらはり(現名古屋市)、東は浅田あさだ村に隣接。標高五〇メートル内外の丘陵と村の北境を西に流れる天白てんぱく川沿いの平野からなる村。

寛文一一年(一六七一)の家数五六、人数三一八(寛文覚書)。「徇行記」によれば、田二〇町六反五畝余、畑三町四反六畝余で、概高三五五石余のうち三二四石余は藩士一一名の給知。村の起源は永禄年間(一五五八―七〇)といわれ、竜淵りゆうえん寺付近の湧水が池となったのを村民が閼伽あか池と称し、これに赤の字をあてたのが村名の由来と寺伝にある。

赤池村
あかいけむら

[現在地名]赤池町赤池

彦山川の中流左岸に位置し、東の対岸は弁城べんじよう(現方城町)、西は筑前国嘉麻かま鹿毛馬かけのま村・勢田せいた(現頴田町)。村の南東端で彦山川に中元寺ちゆうがんじ川が合流し、川による水運の拠点として重視された。元和八年人畜改帳に村名はみえない。正保国絵図に「弁城ノ内 赤池」と記され、元禄国絵図でも同じだが、天保郷帳・旧高旧領取調帳に村名はみえない。しかし享保飢饉による当村の餓死者は三八人とされており(小倉開善寺過去帳)、元禄―享保期(一六八八―一七三六)に弁城村から分村した可能性がある。寛永一二年(一六三五)に小倉藩の郷蔵が設置され(田川市史)、集められた年貢は彦山川を下り、水路で小倉城の本蔵へ運送された。

赤池村
あかいけむら

[現在地名]豊田町赤池

天竜川の下流左岸に沿い、北は森本もりもと村など。天正一七年(一五八九)七月七日の徳川家七ヵ条定書写(穂積利幸氏所蔵文書)の宛先に「赤池 源五郎」とある。正保郷帳に村名がみえ、幕府領、田方五五石余・畑方三四石余、大明神領一石・高正庵領一石。元禄郷帳によると高一二二石余。元禄一二年(一六九九)の青山忠重領知目録によると浜松藩領。国立史料館本元禄郷帳でも同藩領。享保郷村高帳・旧高旧領取調帳ともに旗本堀領。承応三年(一六五四)宗門改帳(福王寺蔵)によれば一五戸・八八人。

赤池村
あかいけむら

[現在地名]人吉市赤池原町・赤池水無町

鳩胸はとむね川西岸に位置する。「八代日記」弘治三年(一五五七)八月一一日条に「真幸衆赤池口ニ出候ヲ百卅人打取」とある。慶長国絵図、寛永一一年(一六三四)の郷村高辻帳にはみえないが、同一八年の検地帳に載る。それによると、上田九反五畝余・中田一四町六反余・下田一三町八反六畝余、上畑二町三反六畝余・中畑八反余・下畑五町三反四畝余・野畑一反七畝余・山畑なし、屋敷一町七反八畝余、合計三七町八反九畝余、分米高三三三石余。元禄国絵図には「間村之内赤池村」とある。その後一八世紀の諸郷地竈万納物寄にはみえず、七地ひちち村に含まれたと思われる。

赤池村
あかいけむら

[現在地名]美並村山田やまだ 赤池

長良川右岸にあり、上流対岸は三日市みつかいち村、下流は高原こうはら村。慶長郷帳に村名があり、高一〇七石。正保郷帳では杉原すいばら村とともに記され、田方七二石余・畑方一四八石余。宝暦六年(一七五六)の郡上郡村高覚帳(鈴木文書)では家数二二(水呑九)、年貢米四五石余、神社分高一石四斗余、年貢米一斗余がある。安永二年(一七七三)の郡上領留記(大西文書)は下川筋川東に位置づけ、渡小舟(長さ六間・幅三尺五寸)一艘。

赤池村
あかいけむら

[現在地名]羽合町赤池

上橋津かみはしづ村の南に位置し、東は南谷みなみだに村。拝領高二〇〇石余。宝暦三年(一七五三)頃の河村郡村々明細帳(近藤家文書)によれば朱高二一八石余、高二五七石余、うち畑高一一石余。免五ツ三分、橋津御蔵納で北村氏の給地があった。悪田加損米六石。川役銀二五匁。棟数一軒・役高二〇人。産土神荒神があり、男一九・女一八、禅門一。幕末の六郡郷村生高竈付では生高二五九石余、竈数九。貞享四年(一六八七)当村・上浅津かみあそづ村・下浅津村の草刈船運上銀は五分に定められている(御船手御定)

赤池村
あかいけむら

[現在地名]清里村赤池

西を櫛池くしいけ川が北流し、川を挟んで青柳あおやなぎ村と対する。天和三年郷帳には高五八石二斗余、うち山高七斗二升八合とある。明和元年(一七六四)年貢割付状(丸山正義氏蔵)によれば田高五一石四斗余・取米一九石二斗余、畑高六石余・取米九斗余、山高七斗余・取米三斗余。そのほか御伝馬宿入用をはじめ、荏代永一〇〇文九分六厘・胡麻代永三四文二分六厘などが課せられている。

赤池村
あかいけむら

[現在地名]飯高町赤桶あこう 赤池

野々口ののぐち村の北、櫛田くしだ川の左岸にある。寛永一八年(一六四一)検地帳(徳川林政史蔵)に「赤池村」と記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

排外主義

外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...

排外主義の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android