角村(読み)すみむら

日本歴史地名大系 「角村」の解説

角村
すみむら

[現在地名]横田町横田

横田村の東に位置し、斐伊川が西流する。正保国絵図に村名がみえる。慶安元年(一六四八)検地帳によれば田高一一〇石余・反別七町六反余、畑高一五石余・反別二町二反余、名請人二七、御役屋敷数六・引方屋敷数一二。元禄十年出雲国郷帳では高一五三石余、寛文四年(一六六四)の本田高一五一石余・新田高三斗余。「雲陽大数録」では高一一〇石。明治八年(一八七五)加食かじき村など三村とともに横田村に合併

角村
つのむら

[現在地名]高岡市角・古定塚ふるじようづか角三島つのみしま

小矢部川庄川中間石瀬いしぜ村の北方に位置。正保郷帳では高二三八石余、田方八町一反余・畑方七町八反余、新田高一二九石余。万治二年(一六五九)から寛文六年(一六六六)に二六石の新開畑直しが行われた(「高免等書上帳」折橋家文書)。同一〇年の村御印の草高四六五石・免四ツ三歩、新田高二六石、小物成は猟船櫂役一〇匁(三箇国高物成帳)。灌漑は十七じゆうしち用水の分流国方くにかた用水・庄方しようかた用水で、文政一一年(一八二八)の水当高は各々三九八石五斗・四〇石(「十七ヶ用水取分け絵図」高樹文庫)

角村
すみむら

[現在地名]岩国市大字角

保木ほうき川の西岸に位置するが、村の西をにしき川が北流し、両河川に挟まれた村である。寛永二〇年(一六四三)河内こうち郷を分割してできた村で、慶安四年(一六五一)の「御領分村一紙」に村名がみえる。河内組代官所属。

永享一一年(一四三九)の椎尾八幡宮棟札に「角次郎左衛門道祐」の名がみえるが、これは地名を負ったものと考えられる。村名の由来を「玖珂郡志」は「往古行安村ト云、角五郎右衛門資清居住、故角ト云」とする。「御領分村一紙」には村高二九一石余、うち田高二五九石余、畠高二五石余、楮高六石余とあるが、享保一一年(一七二六)には村高三一四石余、戸数四三軒、人口二〇四人、牛三四頭、馬二頭(享保増補村記)に増え、幕末にも村高三一五石を維持していた。

角村
すみむら

[現在地名]豊中市原田元はらだもと町二―三丁目など

原田村の小名。原田村集落(現原田元町二―三丁目)のうち、角株の家はほぼ南東部に位置する(元禄一二年「原田村絵図」野口家文書)。慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図では、原田村と並んで「スミ村」とあり一村を形成していたとみられる。延宝五年(一六七七)六月の角村は幕府領一六三石余(野口家文書)。元禄一一年(一六九八)四月では武蔵忍藩阿部領(元禄七年から)一五八石余(同文書)

角村
かどむら

[現在地名]和知町字角

なか村の西、由良川北岸にある小村。緩やかな谷の出口に形成された村で、人家は河岸の台地上に点在する。南は由良川を越えて安栖里あせり村、西・北は広瀬ひろせ村。園部藩領。中世和智わち庄の地。

村高は元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳に七五石余とあり、天保郷帳では六割増の一二〇石余となっている。

角村
すみむら

[現在地名]吉備町角

なか村の西に位置し、有田川南岸域を占める。慶長検地高目録によれば村高二五三石余。田殿組に属し、「続風土記」は家数四四、人数一四六、社寺として稲荷社観音堂を記す。明治八年(一八七五)の村誌(和歌山県立図書館蔵)によれば戸数三八、人数一七一(男八六・女八五)、牝牛一六、川舟二艘、物産は米一五〇石五斗、麦六三石、大豆二斗、大根一千六〇〇本、芋三五貫目、櫨実三〇貫目、橙八籠を産した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

自動車税・軽自動車税

自動車税は自動車(軽自動車税の対象となる軽自動車等および固定資産税の対象となる大型特殊自動車を除く)の所有者に対し都道府県が課する税であり、軽自動車税は軽自動車等(原動機付自転車、軽自動車、小型特殊自...

自動車税・軽自動車税の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android