原田村(読み)はらだむら

日本歴史地名大系 「原田村」の解説

原田村
はらだむら

[現在地名]えびの市原田

現えびの市の東部に位置し、東は大河平おこびら村、西は上江うわえ村、北は坂元さかもと村、南西は末永すえなが村、南は韓国からくに岳の山腹へ至る。肥後街道がほぼ東西に通り、集落は東から西へ流れる川内せんだい川を挟んで南北両岸の河岸段丘上にある。南を同川支流池島いけじま川が流れる。飯野いいの郷に属し、外城制における麓集落として郷士屋敷も多く、地頭館もふもとに置かれていた。かつては飯野城も築かれた軍事的要所であった。

慶長四年(一五九九)五月九日の廊之坊諸国旦那帳(熊野那智大社文書)には日向国の「原田先達東蔵坊」の名がみえる。同一五年の新納忠元知行目録(寺師文書)には、諸村浮免として「飯野原田村 谷ノ口加増」の下田一反余・一石余、同所下田六畝余・六斗余、同村「坊かしま」下田一畝余・一斗余などがみえる。寛文四年(一六六四)の諸県郡村高辻帳には原田村とみえ、表高一千三七六石余。「三州御治世要覧」では内高二千三五石余、麓村なりと注記される。旧高旧領取調帳では高二千一二九石余。慶長一六年五月、伊東作右衛門尉に村内の玄蕃か原・小原之脇・はきわらの田畠計二反(一石余)などが知行として与えられた(「伊集院元巣知行目録」旧記雑録)。同一九年八月には豊前坊に村内の蓑原之門(高七八石余)・小園屋敷(九石余)など計九一石余が知行として宛行われた(「町田久幸外三名連署知行目録」同書)。文久三年(一八六三)郡奉行吉村九介は勝手方へ村内の抱地高二石余を「用水掛口差障罷成場所」という理由で「御前帳消除」と下り高(免租)を上申し、最終的に勘定奉行の認可を受けている(「薩摩藩万留」鹿児島県立図書館蔵)

原田村
はらだむら

[現在地名]豊中市原田〈もと町一―三丁目・なか一―二丁目・西にし町〉・曾根南そねみなみ町二―三丁目・曾根西そねにし町二―四丁目・岡町南おかまちみなみ一―三丁目・南空港みなみくうこう町・勝部かつべ一―二丁目・岡町北おかまちきた一―二丁目・中桜塚なかさくらづか一―二丁目・南桜塚みなみさくらづか一丁目など

勝部村・山之上やまのうえ村・轟木とどろき村・桜塚村の南、千里せんり川と猪名いな川の合流点の北から東にかけてに村域がある。集落(現原田元町二―三丁目)は豊中台地の南西端から低地帯へ移行する地にある。村中央を千里川が流れるが、とくに街道は通っていない。

中世は垂水西たるみのにし六車むぐるま(原田郷)に属し、その本郷にあたる。戦国時代には原田城が築城され、天文一〇年(一五四一)には細川晴元の臣木沢長政が三好利長を原田城に攻めている(細川両家記・足利季世記)。城は北と南に分れ、三好氏と原田氏が拠ったという(摂津志)。文禄三年(一五九四)の検地では、原田郷一〇ヵ村(梨井村・中倉村・角村・南町村・桜塚村・勝部村・岡山村・曾根村・福井村・走井村)惣高三千一八〇石を検地帳一冊に仕立てて、原田村梨井なしい庄屋が所持したという(享保二年「岡山村名寄帳」中村家文書)。慶長一〇年(一六〇五)の摂津国絵図では、原田村・スミ(角)村・曾根村・福井ふくい村・岡山おかやま村と一括されて高三千一八一石余。

原田村
はらだむら

[現在地名]大崎町原田

大崎上おおさきかみ島西寄りの中央部に位置する。南は山を負って沖浦おきうら村・明石方あかしがた(現木江町)と境し、東北は大崎中野おおさきなかの村、西北は大串おおくし村に接する。「芸藩通志」に「広十五町、袤十八町」とある。海には面していないが、寛永一五年(一六三八)当村から分村した大串村の海岸が原田・大串両村の入会になっている。その間の事情は「国郡志下調書出帳」に次のように記されている。

<資料は省略されています>

寛永一五年の原田村地詰帳(大崎町教育委員会蔵)によると、田畠・屋敷・塩浜の総畝数三七町五反余、村高四二一・一石。うち塩浜は九反三畝余、ぬい数五三、高二一・二石で揚浜である。この塩浜は「国郡志下調書出帳」に「塩浜高弐拾壱石弐斗、畝数九反三畝拾五歩、延宝二寅年大風ニ破損仕、荒高ニ相成申内、元禄年中田方ニ起シ申、畝数五反壱畝弐拾七歩」とみえる。

原田村
はるだむら

[現在地名]筑紫野市原田一―八丁目・うつくしが丘北おかきた一―四丁目・うつくしが丘南おかみなみ一―七丁目・原田

筑紫ちくし村の南西、山東麓に位置する。宝満ほうまん川支流宝珠川が南東へ流れる。南は肥前国基肄きい城戸きど(現佐賀県基山町)、筑後国御原みはら三沢みつさわ村・津古つこ(現小郡市)。南部に筑前・筑後・肥前の境界があり、三国境みくにさかいと称した(続風土記)。長崎街道が北東から南西に通り、同街道の筑前六宿の一つ原田宿があった。もとは筑紫村の内であったが、のちに分れて別村となった(同書)。天文一〇年(一五四一)以降のものと考えられる八月二二日の大内氏奉行人連署副状(宗像大社所蔵文書/宗像大社文書一)によれば同月一二日の「三笠郡原田村」での合戦における黒川隆尚の軍功が賞されている。また「筑後将士軍談」では天正一三年(一五八五)九月、戸次道雪の死に乗じて筑紫広門が高橋紹運を攻めた際、手勢三〇〇を原田城に駐屯させたという。

原田村
はらだむら

[現在地名]人吉市上原田かみはらだ町・下原田しもはらだ

人吉城下の北西にあり、東と北は万江まえ(現球磨郡山江村)、西はほぼ馬氷まごおり川を境としてわたり(同球磨村)、南ははやし村・おお村・中神なかがみ村と接する。北と西が標高二〇〇―八〇〇メートルの山地をなし、万江川と馬氷川に挟まれた地域が平坦面で、集落の大部分がそこに位置する。中世には永吉ながよし庄に属し、建久二年(一一九一)五月三日の良峯師高所領譲状案(平河文書)に「一所 同郡同庄之内原田之村田地廿七町四反四十九石三十貫」とある。また南北朝期の興国二年(一三四一)閏四月二八日の相良祐長軍忠状案(相良家文書)によると、同元年六月二〇日「原田城大宰(少)弐頼尚若党以下凶徒等楯籠之間、押寄、致合戦、焼払了」とある。

原田村
はらだむら

[現在地名]大口市原田

さと村の南にあり、南は南西流する市山いちやま川を境に大隅国菱刈ひしかり郡市山村・花北はなきた(現菱刈町)、西は羽月はつき川を境に羽月郷大島おおしま村・金羽田かなはだ村に囲まれた平坦地にある。中央を水之手みずのて川が蛇行しながら南へ流れ、市山川に合流する。大口筋が当村から里村にかけて通り、大口城跡付近に水之手川に架かる水之手橋がある。伊佐郡大口郷に属した。

寛正六年(一四六五)一一月一五日の牛山院坪付(田代家文書写)には、「うきめん原田名」として「といのくち」の二反、「とうりう」の一反、「さこた」の一反、「かわくほ」の三反などがみえる。慶長一二年(一六〇七)には「原田村中せまち二反之内」の下田一反(一石)・「原田村とひた」の中畠六畦余(四斗余)など、計五反余(分米五石余)の地が新納利兵衛尉に加増された(「新納為舟加増坪付」旧記雑録)

原田村
はらだむら

[現在地名]佐田町原田

南は穴見あなみ(現掛合町)大路おおろ村、西は大路村と反辺たんべ村。集落は三坂みさか田代たしろ白滝しらたき大歳おおとし風戸かざと神棚かんだな稲田いなた仲間なかまで構成される。南端の三坂は広瀬藩領の穴見村に接するため番所が設けられ、番所跡・三坂元番の地名が残る(雲陽大数録)。寛文一〇年(一六七〇)の原田村御検地帳によると高三九六石余。元禄十年出雲国郷帳では高五〇三石余、寛文四年(一六六四)の本田高四七九石余・新田高二石余。「雲陽大数録」では高三三〇石。宝暦四年(一七五四)の万指出帳(勝部家文書)では高三三六石余、家数一〇四・人数五一二、牛四一、馬一三で、鉄山一ヵ所があげられる。

原田村
はらだむら

[現在地名]灘区原田通はらだどおり一―三丁目・灘北通なだきたどおり七―一〇丁目・城内通しろのうちどおり一―五丁目・王子町おうじちよう一―三丁目・青谷町あおたにちよう一―四丁目・中原通なかはらどおり六―七丁目・水道筋すいどうすじ六丁目・岸地通きしちどおり五丁目・大内通おおうちどおり六丁目・原田

岩屋いわや村の北、六甲ろつこう山地南麓の段丘と沖積層の緩傾斜地に位置し、村の東に西郷にしごう川が流れる。中世は都賀とが庄内にあり、文明元年(一四六九)一一月日の都賀庄寺庵帳(天城文書)には原田と肩書されて宝泉ほうせん(現浄土宗)・松本寺(現廃寺)・春日免・王子免(現王子神社)・阿弥陀堂、原田水室と肩書されて常楽寺(現廃寺)がみえる。

原田村
はらだむら

[現在地名]西郷町原田

へい村の北西に位置し、八尾やび川が流れる。中世には一帯に原田郷が成立していた。正保国絵図に村名がみえる。貞享五年(一六八八)の「増補隠州記」によれば、田二六四石余・二〇町六反余、畑七〇石余・四四町八反余、ほかに新田畑三三石余。小物成は竈役面判銀(以下断りのない限り同銀)四七匁・絞油七升余役一四匁六分・核苧一貫目役二匁六分・牛皮二枚役丁銀五匁・茶四〇袋役六匁、漆六升二合役は米五石五斗余で代納している。家数一〇七(百姓六二・間脇四五)のうち御役目屋敷四七、男三三二・女三七五、坊主六・神主四・山伏二・禅門四・座頭一、牛一五六・馬九五、弓・鉄砲各三。

原田村
はらだむら

[現在地名]千歳村前田まえだ 瀬戸せと長田下ながたしも長田上ながたかみはる上福かみふく

倉波くらなみ村の南、大野川西岸の台地上にあり、対岸は臼杵藩領西原にしばる(現三重町)。室町期と推定される年未詳三月二六日付の大友著世知行預ケ状(麻生照美文書)にみえる井田いだ郷原田名の遺称地。正保郷帳では原村とあり、井田郷に属し田高九七石余・畑高一〇〇石余。元禄郷帳では原田村。旧高旧領取調帳では高三二五石余。岡藩小制札場が置かれていた(岡藩御覧帳細注)

原田村
はらだむら

[現在地名]善通寺市原田町、丸亀市原田町・原田団地はらだだんち

金倉かなくら川の右岸、木徳きとく村の北西に立地する。応永七年(一四〇〇)八月三日の金蔵寺領段銭請取状(金蔵寺文書)によれば、同年金倉こんぞう(金倉上庄)と原田を合せた一二〇町六段二四〇歩の三貫六二〇文が段銭として納められた。天正一五年(一五八七)の生駒近規宛行状(由佐家文書)によると、由佐平右衛門は知行地のうち一〇〇石が当村で宛行われている。那珂なか郡に属し、寛永国絵図では金蔵寺こんぞうじ六条ろくじようを含む原田村の高一千六九一石。

原田村
はらだむら

[現在地名]若宮町原田

犬鳴いぬなき川を挟んで金丸かなまる村の南、同川中流右岸の平坦部に位置する。弘安八年(一二八五)三月日の水原若宮社村々相撲次第(町村書上帳/鎌倉遺文二〇)では、若宮八幡宮相撲出仕役の六番に「原田 仁恵」がみえる。天正九年(一五八一)一一月一三日のいわゆる小金原合戦の際には宗像勢と大友方の戸次道雪勢(立花勢)の主戦場の一つとなったという。宗像勢は友池村付近で犬鳴川を堰止め、戸次勢を足止めしようとしたがかなわず、激戦が繰広げられたとされるが(「宗像記追考」「宗像軍記」など)、この友池村は地内の友池ともいけに比定される。

原田村
はらだむら

[現在地名]富士市原田・今泉いまいずみ四丁目・宇東川東町うとうがわひがしちよう宇東川西町うとうがわにしちよう富士見台ふじみだい

今泉村の東、愛鷹あしたか山の西麓の丘陵に位置する。根方ねがた街道が南部を東西に走る。永禄二年(一五五九)六月八日の今川義元判物(永明寺文書)に「富士郡原田郷」とみえ、郷内に永明ようめい寺があった。天正二年(一五七四)一二月一四日付武田家朱印状写(判物証文写)によれば、武田家は原田郷のうちの神尾与三兵衛抱分一三八俵四升一合ほかの所領を庵原源一郎に安堵している。

原田村
はらだむら

[現在地名]尾花沢市原田

北郷坂本きたごうさかもと村の南、丹生にゆう川支流綱木つなき川の流域に位置し、主集落の下原田(北西部)・上原田(南東部)は同川の右岸段丘上にある。東は鶴巻田つるまきた村。下原田の字玉野原たまのはらを「続日本紀」天平九年(七三七)四月一四日条にみえる「玉野」や天平宝字三年(七五九)に置かれた玉野駅の遺名とみて、古代の玉野駅や同駅と同一地内に置かれたと考えられる大室おおむろ(「続日本紀」天平九年四月一四日条)、大室塞(同書天平宝亀二年一二月一〇日条)を当地一帯に比定する説がある。

原田村
はらたむら

[現在地名]平賀町原田

ひら川の形成した扇状地上にあり、北は石郷いしごう村、南西は岩館いわだて村、南東は薬師堂やくしどう村・乳井にゆうい(現弘前市)に接する。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の平賀郡に高四二五・四石、うち田方三九五・六四石とある。貞享四年(一六八七)の検地帳に村高八三八・二五五石、うち田方七一町一畝一九歩、八二六・三六二石、畑方二町七畝一二歩、一一・八九三石とあり、漆木八本、村中抱えの観音堂地が記される。

原田村
はらだむら

[現在地名]高宮町原田

房後ぼうご村の西南に位置し、本村ほむら川の支流宮迫みやさこ川下流域に広がる平地山際に集落がある。「芸藩通志」に「広一里四丁、袤一里八丁、四方低山にして、川一筋沼流をうけて南に出る、此村旱損に苦あり」とあるように、高原の村であった。村内には原田原とも雨乞あまごい原ともよばれる原があり「縦拾五丁程、横八丁程」(高田郡の「国郡志下調郡辻書出帳」)の広さであったが、耕作ができず、明治時代には広島鎮台砲兵の演習を行ったこともある。

元和五年(一六一九)の安芸国知行帳では高七二七・九八九石。「芸藩通志」でも七三六・〇六二石と、あまり変化はない。「国郡志下調書出要約」によると、内訳は田方五八町二反余で五四三・六八三石、畠方七町七反余で七二・七五七石、屋敷二町余で二六・五七六石、ほかに古川成八四・九七三石(一町八反余)があり、新開八・〇七三石(一町五反余)があった。

原田村
はるだむら

[現在地名]三潴町原田

高三潴たかみづま村の西、筑後川とひろ川の合流点近くにある。西・北は草場くさば村。中世は原田庄が成立。天正一五年(一五八七)七月一八日の大善寺寺社領分注文(歴世古文書)に「五反させは給 原田村」とある。文禄四年(一五九五)の知行方目録では高五三三石余。本高は四八三石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」によると古高四八〇石・役高四七四石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高四七四石。文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田二九町五反余・畑田一反余・畑二反余・居屋敷四反余。旧高旧領取調帳の高四八四石余。字京田きようでに氏神の弓頭ゆがしら神社(旧村社)がある。

原田村
はらだむら

[現在地名]仁多町三沢みざわ

鞍掛くらかけ村の北に位置し、鴨倉かもくら(要害山、四一八・五メートル)の東方谷間に立地する。正保国絵図に村名がみえ、当村の西に「原田ノ内三沢村」が記される。慶安三年(一六五〇)の三沢之内原田村検地帳によると田高一七八石余・反別一三町八反余、畑高四四石余・反別六町九反余、屋敷数二〇(うち引方一二)。元禄十年出雲国郷帳では高二七〇石余、寛文四年(一六六四)の本田高二六八石余・新田高二斗余。

原田村
はらだむら

[現在地名]有明町原田

志布志しぶし野神のがみ村の南、南流する田原たばる川沿いに開けた小村。東は同郷蓬原ふつはら村、西は大崎おおさき持留もちどめ(現大崎町)、南は同郷井俣いまた村・菱田ひしだ(現同上)。志布志郷に属した。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳に村名がみえ高四四〇石余。「三州御治世要覧」では延享(一七四四―四八)頃の高三〇三石余。宝暦一一年(一七六一)の幕府巡見使への答書(志布志肝付家文書)には家数二八、男一二九人・女九九人とあり、幕末頃のものと考えられる志布志十二ヶ村門付帳(志布志西家文書)には門九・屋敷二、家部数二二・人口二六七とある。

原田村
はらだむら

[現在地名]高梁市落合町原田おちあいちようはらだ

阿部あべ村と川乱かわみだれ村に北・東・南の三方を囲まれ標高三五〇―四五〇メートルの高原上に位置する。西は福地しろち村。寛永備中国絵図に村名がみえ、高八九石余、山崎家治先知。正保郷帳でも同高、幕府領(以後の領主の変遷は増原村に同じ)、芝草山少とある。正徳四年(一七一四)の備中一国重宝記では高一八九石余。「備中誌」によれば反別一〇町二反余。

原田村
はらだむら

[現在地名]中央町原田

神園こうぞの村の南、四方を山岳で囲まれた山間に狭小な迫間が開け、集落が形成される。西は中間なかま(現豊野村)、南は津留つる村、東は小市野こいちの村・萱野かやの村に接する。「郡村誌」には水利不便でしばしば干害に苦しんだとある。中世は中山なかやま郷の領域にあり、戦国期には松野原まつのはら城城主田上丹後守が領した(町誌中央)

原田村
はらだむら

[現在地名]堺市原田

信太山しのだやま丘陵の北部にあり、草部くさべ村の西に位置する。大鳥郡に属する。慶長一〇年(一六〇五)和泉国絵図の高五二五石余、寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳では草部村の一部と合せて四〇九石余、元文年中改和泉国四郡郷村高帳では一村で三六二石余、天保郷帳では二〇八石余。この一五四石余の石高減少は、草部村民の出作地で当村庄屋支配の地が、寛延四年(一七五一)草部村庄屋支配に組替えられたことによる(池尾家文書)

原田村
はるだむら

[現在地名]有明町大字坂田さかだ字原田

深浦ふかうら室島むるしま・坂田・古賀こがの各村に囲まれた中心にある。正保絵図に村名がみえる。穀倉地帯の白石平野の西部にあり、比較的早い時点に陸化した村である。

この地域は鎌倉時代は日向通益(のちの白石氏)の所領であり、ついで須古すこ城主平井氏の領地となったが、室町時代には竜造寺隆信が平井氏を滅ぼして領主となった。

原田村
はらだむら

[現在地名]橋本市原田

つま村の西北、紀ノ川の北岸から北に続く丘陵地にある。慶長検地高目録による村高六九石余。上組に属し、慶安四年(一六五一)の上組在々田畠小物成改帳控(土屋家文書)では家数一五(役家四など)、人数六〇、牛四。

原田村
はらだむら

[現在地名]丸亀市原田町・原田団地はらだだんち、善通寺市原田町

金倉かなくら川の右岸に位置する。那珂なか郡に属し、北は村。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報