観菩提寺(読み)かんぼだいじ

日本歴史地名大系 「観菩提寺」の解説

観菩提寺
かんぼだいじ

[現在地名]島ヶ原村 中村

島ヶ原村北部の中央井手いでにあり、後方に三田みた連山の西端の峰を控え、前方に田畑が開ける景勝の地。山号普門山、一名正月堂と称され、現真言宗豊山派。本尊十一面観音。「伊水温故」や「伊賀国誌」(内閣文庫蔵)は「准后記に聖武天皇の勅願所」とあるが、「准后伊賀記」には「島ケ原郷、広国寺観音、三条院御本仏」とあるのみで聖武天皇勅願所の記載はない。また「伊賀史」に「花山天皇御宇寛和丙戌、帝哀弘徽殿御薨、夢中見女御御在伊賀霜原、遣沙門、建御堂宇広国夫子菩提寺、安置仏者常見之作也」とあるが、「准后伊賀記」「伊賀史」の所説は近世初期に存した伝承と解すべきであろう。「三国地志」は「按、二月堂ノ別院ニシテ、聖武帝ノ創建シ玉ウ処」とするが、聖武天皇創建説は「伊水温故」以後、江戸中期に定着した縁起と考えられる。寛文三年(一六六三)楼門修理の時の棟札(現存のものは安永年間の再製)には「奉再興楼門伊州綾郡島ケ原党普門山観菩提寺」とあるが、「島ケ原党観菩提寺」という書式は意味が深い。正保二年(一六四五)より明治初年に至る奥村おくむらの上頭宮座記録(奥村区有文書)や、宝暦一四年(一七六四)慈眼院文書、安永一〇年(一七八一)の観菩提寺一山勤行格式目書(ともに観菩提寺蔵)などには「一族仲間より住持居申格式に有之候、乍併右無足人仲間より住職仕候者無之、他僧を居申候節は仲間之内より親取いたし候て住持願可致事」とあるように、当寺は古来住職はもとより、寺院の運営が島ヶ原党によって管理されていた。

元禄六年(一六九三)一一月五日付の「正月堂古記」(同寺蔵)によれば、僧実忠開基の僧坊が荒廃しているのを島ヶ原一党が再興し、弘長年中(一二六一―六四)の正月九日より餅柱を奉献し、その後元弘年中(一三三一―三四)に一族の武運を祈願し、諏訪明神を寺庵の一隅に勧請し、鎮守神兼氏神にしたと記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「観菩提寺」の解説

観菩提寺

三重県伊賀市にある寺院。奈良時代に開基と伝わる。室町時代に建てられた正月堂(本堂)、楼門は国の重要文化財に指定されている。

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