島ヶ原村(読み)しまがはらむら

日本歴史地名大系 「島ヶ原村」の解説

島ヶ原村
しまがはらむら

[現在地名]島ヶ原村

伊賀国の西北端に位置し、南は伊賀郡から大和国山辺やまべ郡、さらに西にかけて山城国相楽そうらく郡、北は近江国甲賀郡に接する。古くは、シマハラ、シマノハラと発音し、シマガハラと発音するのは「伊水温故」頃以後のことであろう。名張なばり川系以外の伊賀の河川の水は当村の伊賀川に集まって木津きづ川となる。標高一〇〇メートルは伊賀での最低所。伊賀川を挟む北はほとんど山地で、高旗たかはた(六五〇メートル)連峰より流れ出る川の流域に耕地が開ける。

村の中央部やや西寄りを流れる小山こやま川流域のフカンゾウ・上小山からは縄文時代の石鏃・サヌカイト片・土器片が出土し、木津川上流(名張川)大川おおこ遺跡(現奈良県山添村)との関連が考えられる。和銅四年(七一一)山城の岡田おかだ(現京都府加茂町)と伊賀の新家にいのみ(現上野市東高倉)を結ぶ道が開かれた(続日本紀)。いわゆる東海道である。山城の大河原おおかわら押原おしはら(現京都府南山城村)より当村北部の山間丘陵の裾地を、奥村おくむら大道おおどう中屋なかや(現中矢)を経て西山にしやま(現上野市)を結ぶ道で、大道の地名にその名残をとどめ、その周辺に奈良時代の土器片が散布する。なお大道から下って伊賀川の河岸段丘谷尻たにじりより平田ひらたにかけて、須恵器片が出土するところから、平安時代に入り、河岸地域にも人々が居住するようになったと考えられる。その後の鎌倉時代の瓦器は伊賀川の両岸に出土し、鎌倉道と俗称される道が当地の相田おうだ辺りに残っているが、これは対岸の現上野市射手いで(約三一三メートル)西裾を回って、当村の伊藤いとより相田に川を渡り、北上して中屋で古代の東海道に接続する道をいうが、相田からたいヶ峰(一七〇メートル)の北を通り、谷尻・平田へ出る道も開かれていたと考えられる。「源平盛衰記」に源義経が木曾義仲討伐のため、射手山西裾道を通り当地に出ているが、当地の首長が飼葉を入れた馬槽一〇〇ほどを献上したため、以後馬船という姓を賜ったという「茅栗草子」の記事には「その時の通路は鎌倉道とて今の道にはあらで、北手の河はたに古めきてのこれり」と記している。文明五年(一四七三)一条兼良が美濃紀行(ふち河の記)の帰途

<資料は省略されています>

と越えた道もこの道である。

天養元年(一一四四)三月二九日付の太政官符(三国地志)島原しまはら保と現れ、当時は伊賀郡に属したと考えられる。当村の東の長田ながた(現上野市)は平城宮出土木簡に伊賀国伊賀郡とあり、天喜四年(一〇五六)散位藤原実遠所領譲状案(東南院文書)には伊賀郡長田郷とある。

島ヶ原村
しまがはらむら

面積:二三・七九平方キロ

三重県の西北端に位置し、村域の東から南にかけては上野市、北は滋賀県、西は京都府、南の一部は奈良県に接する。平地は少なく、とくに北と南は連山に遮られ、その間を木津きづ川が西流する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報