西野々村(読み)にしののむら

日本歴史地名大系 「西野々村」の解説

西野々村
にしののむら

[現在地名]高梁市松原町松岡まつばらちようまつおか

春木はるき村の西に位置し、集落は標高四〇〇メートル前後の高原上に点在する。寛永備中国絵図に村名がみえ、高八二一石余、松山藩領(以後の領主の変遷は松山西村に同じ)正保郷帳でも同高、宮林少・芝草山大とある。元禄八年(一六九五)の旧松山領新高帳(羽場文書)では古高五八一石余・新高六七八石余。「備中誌」によれば家数五八・人数一八四、村内は東西七町・南北一二町。「備中村鑑」には割出わりで村の大庄屋東財次郎が当村庄屋を兼帯とある。

西野々村
にしののむら

[現在地名]広見町西野々

大宿おおじゆく川下流右岸の山あいに位置する。北は清水せいずい村、南は小西野々こにしのの村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項に「西野ノ村 柴山茅山、小川有」と村名がみえる。宇和島藩領。

太閤検地石高は四二七石六斗八合で、耕地面積の比率は田七九パーセント、畑二一パーセント。寛文検地では石高が三三パーセント増加し、田三九パーセント、畑六一パーセントとなっている。「墅截」によると、村柄は「中」、田が「上」、畑は「中」とされ、水掛りは「吉」となっている。鬮持制実施期の本百姓一人前の耕地は田四反九畝一五歩、畑五反七畝で、百姓数は七一人、うち本百姓三四人、半百姓二六人、四半百姓一〇人、庄屋一人であった。

西野々村
にしののむら

[現在地名]但東町西野々

太田市場おおたいちば村の北東、高竜寺こうりゆうじヶ岳の谷間にあり、北は高竜寺村。また村域の北西端でわずかに村の北端と境している。近世の領主の変遷は三原みはら村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図では高一〇八石余、宝暦二年(一七五二)の倉見領分高附帳(岡田家文書)でも同高。寛延元年(一七四八)木村との間で境相論(わら谷事件)が起こっている。

西野々村
にしののむら

[現在地名]福崎町南田原みなみたわら

吉田よした村の北、いち川左岸に位置する。正保郷帳では田方六一石余・畑方一四石余、「新田有」と注記される。天保郷帳では高九四石余。明治九年(一八七六)長目ながめ村など五ヵ村と合併して南田原村となる。

西野々村
にしののむら

[現在地名]篠山市西野々

安口はだかす村の東に位置し、籾井もみい川が流れる。南部の鳥部とりべ山中腹に永禄年間(一五五八―七〇)近江佐々木氏一族の西村定賢・定光が拠点にしたという古館跡がある。正保郷帳に「西野々村」とみえ、田高三八一石余・畠高五九石で、丹波亀山藩領。

西野々村
にしののむら

[現在地名]田辺市中芳養なかはや

芳養川流域、田尻たじり村の北に位置する。中世芳養庄に含まれた。慶長六年(一六〇一)の浅野左衛門佐殿知行持高写(「万代記」所収)には北隣の平野ひらの村の地とともに「平野西野々村」とあり、村高三八六石余。天保郷帳でも同様一括されて高付されている。安政六年(一八五九)の家数人数牛馬数書上帳(田所文書)によると西野々村の家数三三、うち役家五・柄在家(無役家)二八。

西野々村
にしののむら

[現在地名]松阪市西野々町

佐久米さくめ村の北にあり、東は大宮田おおみやた村と接し、北は西黒部にしくろべ村に至る。文禄検地帳(徳川林政史蔵)に「宮田郷之内西野村」と記される。近世は和歌山藩松坂領。元禄郷帳では一村であるが、天保郷帳では大宮田村に含まれる形となる。「五鈴遺響」には宮田村(大宮田)の属邑として「西野」と記されている。

西野々村
にしののむら

[現在地名]加西市西野々町

池上いけがみ村の西に位置する。慶長国絵図に「西のゝ村」とある。領主の変遷は西南にしなん村と同じ。正保郷帳によると田方二二一石余・畑方四三石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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