藤田村(読み)ふじたむら

日本歴史地名大系 「藤田村」の解説

藤田村
ふじたむら

[現在地名]国見町藤田

観月台かんげつだい源宗げんぞう山の南東麓に集落があり、ほとんどが平地。北は山崎やまざき村、南は塚野目つかのめ村・徳江とくえ村、東は森山もりやま村、西は小坂こさか村・塚野目村。奥州道中が通り、藤田宿があった。地名は土地の開発者藤田大学にちなむというが(明治一四年「藤田村誌」国見町史)、日光山の神が白い鹿に乗ってこの地を通ったとき、炭焼藤太が案内を勤めたとする伝承があり、藤太からきているともいわれる。東部に広がる水田には、平安時代の条里遺構があったが、近年の圃場整備により破壊された。「吾妻鏡」文治五年(一一八九)八月一〇日条に、源頼朝が奥州平泉藤原氏を攻めた際の宿営地として藤田宿がみえ、同月七日条にみえる国見駅・国見宿と同じと思われる。この記述からすると、藤田宿は平安時代末には宿を形成していたことになる。

貞和三年(一三四七)八月一日の吉良貞家寄進状(飯野八幡宮文書)に「伊達郡藤田城戦場」とみえる。藤田城の中心部分は源宗山で、根小屋の一部が当地の観月台にあたる。文明一五年(一四八三)の伊達成宗上洛日記写(伊達家文書)に、成宗の随伴者として藤田方がみえる。永正一三年(一五一六)六月一八日、山岸長門守は藤田中務所より購入した上平柳の惣成敗権などを安堵されている(「伊達稙宗安堵状案」同文書)。なお桐窪家譜(伊達世臣家譜)によると、桐窪中務少輔は藤田邑を領していた。また、岡村家譜(同書)は伊達氏の修験道場の先達極楽院が当地に置かれたことがあると伝え、大立目家譜(同書)は、大立目重徳が当地のくぼ屋敷に住んだとしている。

藤田村
ふじたむら

[現在地名]八幡西区藤田一―四丁目・田町たまち一―二丁目・屋敷やしき一―二丁目・舟町ふなまち東浜町ひがしはままち黒崎くろさき一丁目・黒崎城石くろさきしろいし紅梅こうばい一―四丁目・八千代町やちよまち南八千代町みなみやちよまち東神原町ひがしかんばらまち陣山じんやま一―三丁目・清納せいのう一―二丁目・平尾町ひらおまち西川頭町にしかわがしらまち東川頭町ひがしかわがしらまち河桃町こうとうまち元城町もとしろまちなど、八幡東区桃園ももぞの一―四丁目・祇園ぎおん四丁目・祇園原町ぎおんばらまちなど

現八幡西区の北東端部(一部は現八幡東区)河頭ごうとう(二一三・一メートル)の北麓に位置する。北は海(洞海湾)に面し、東は前田まえだ(現八幡東区)、西は熊手くまで村、南は鳴水なるみず村。長崎街道が通り、東に妙見みようけん山、西に道伯どうはく(城山)洞海どうかい湾に突出した小山がある。集落は本村にあたる藤田町、およびかみみよう(上ノ銘とも)・二ッ石・広河原ひろかわら(続風土記拾遺)。うち藤田町は長崎街道黒崎宿の町場で、藤田町に西接する同宿の田町(黒崎田町)も当村抱えであった。古くは上ノ名が本村であったが、慶長年中(一五九六―一六一五)城山に黒崎城が築かれた際、民戸を同山の南麓に移して黒崎城の山下町(藤田町)とした。一国一城令で同城が破却されると、藤田町・田町および熊手村のうち熊手町を合せ、黒崎宿として整備されていった。

藤田村
ふじたむら

[現在地名]角田市藤田

亘理わたり丘陵西麓にあり、西を阿武隈川が北流する。南を半田はんだ川が西へ流れ阿武隈川に入る。北は坂津田さかつた村、南は尾山おやま村、東は明通あきどおし峠を経て亘理郡小平こだいら(現山元町)。南から北へ柴田郡槻木つきのき宿(現柴田町)へ向かう道が通る。天文七年(一五三八)の段銭古帳に「ふち田」とみえ段銭九貫一〇〇文。また段銭五貫二五〇文の「ミやさハかう」は当村北部の字宮沢みやざわ付近に比定される。「伊達世臣家譜」によれば大松沢氏の祖は伊具いぐ郡宮沢の地を与えられ宮沢氏を称したという。同二二年集成の晴宗公采地下賜録で「こくふん太郎左衛門ふんちきやうのとをり、ふくたのかうのこさす」と沼辺玄蕃に下されている福田ふくだ郷は当村字福田に、同じく沼辺氏の所領として段銭・棟役が免除されている「あらい」の郷は字荒井あらいに比定される。荒井はこれ以前、明応七年(一四九八)七月一一日の伊達宗実相続状(国分文書)に「いくのしやうあらいのむら」とみえ、「とくたいやしき一う、そや太郎内一う、小二郎内一宇、しやうさい内一う、ちく内一う、さくらの木のした一う」を永代にわたって相続した旨を国分修理助に告げている。

藤田村
ふじたむら

[現在地名]大牟田市藤田町・桜町さくらまち神田町かんだまち

馬籠まごめ村の南、諏訪すわ川左岸の微高地にある。南は肥後国。天慶七年(九四四)四月二二日の筑後国神名帳(高良山文書/久留米市史7 資料編古代・中世)には三毛みけ郡十三前神の一として従五位下の「藤田神」が記される。観応三年(一三五二)書写の安楽寺領注進状には半不輸の地の一所として「藤田別符」がみえ、「自去年凶徒押領」の地であった。これよりのちの室町期の大鳥居知行所領注文(同文書/大宰府・太宰府天満宮史料一三)には「藤田灯油御供米」が菊池氏の被官とみられる小森田・大野・賀江による押妨を受けているとあるので、藤田別符は安楽寺(太宰府天満宮)の灯油料田として別納地とされていたのであろう。藤田天満宮には貞和七年(観応二年、一三五一)一一月日銘の石塔残闕(県指定文化財)があり、「筑後三池南郷藤田村 大自在天神」に大檀那大蔵氏女によって造立、奉納された。

藤田村
とうだむら

[現在地名]若草町藤田

加賀美かがみ村の東、釜無川および滝沢たきざわ川の氾濫原の平坦地に立地。東境を釜無川、村内東部を八糸やいと川、中央部をあぶら川、西部をよこ(西川)が並行して南流する。南は東南胡ひがしなんご村・西南胡村(現甲西町)に接し、村域は東西一一―一三町、南北一一―一三町(宝永二年「村明細帳写」県立図書館蔵)。天正一〇年(一五八二)一二月五日の徳川家印判状写(中巨摩郡志)に「藤田飯野分」とみえ、徳川家康の甲斐入国に際し、饗場修理亮は家康より当地ほかを本給として安堵された。翌一一年四月一九日法善ほうぜん寺は、家康より「藤田内壱貫百廿拾文余」ほかを安堵されている(「徳川家康判物写」甲斐国志)。同二〇年二月一四日地内にある身延山久遠くおん寺末の泉能せんのう寺が加藤光政より境内地一〇〇坪の坪銭を免除されている(「加藤光政身延山末寺屋敷免許状」久遠寺文書)

藤田村
ふじたむら

[現在地名]社町藤田

加古川の支流千鳥ちどり(久米川)の流域に位置し、西は木梨きなし村。地名は藤田三郎太夫行安(行泰)が当地に鎮座する木梨こなし神社に祈願して、大池にすみついた大蛇を退治した伝説にちなむという(新修加東郡誌)。藤田三郎太夫行泰の名は「平家物語」巻九(三草勢揃付三草合戦)にみえ、木梨神社内に三郎太夫神社が祀られる。文永二年(一二六五)一一月三日の住吉神領杣山四至并造替諸役差定書(大川瀬住吉神社文書)に、「クメ(久米)ハ南ハクルメツシ(久留米辻)、西ハフシタノミヤノハナ(藤田ノ宮ノ鼻)」「三クサ□(中略)南ハフチタサカイウレヤイサカ(坂)」とあり、久米くめ庄の西限が藤田ノ宮ノ鼻、三草みくさの南限が藤田境ウレヤイ坂であった。

藤田村
ふじたむら

[現在地名]大江町藤田

月布つきぬの川が最上川に合流する南の広い河岸段丘上にあり、北は左沢あてらざわ町、東の最上川対岸は伏熊ふしくま村。最上川は曲流しながら急崖をつくり、左巻ひだりまき大明神だいみようじん淵・楢木ならのき淵など河川交通の難所がある。楢木淵の下流にしおまき瀬があり、川船の着く船場で米を積出し、古く簗も設置されていた。最上氏領から元和八年(一六二二)左沢藩領、寛永八年(一六三一)幕府領庄内藩預地、翌九年庄内藩領、慶安二年(一六四九)以降松山藩領。

藤田村
とうだむら

[現在地名]守口市藤田町一―六丁目・大久保おおくぼ町一―三丁目など

きた村の南に位置する近世大久保郷の一村。村の東辺から南辺をふる川が流れる。かじ村などとともに大庭おおば・大久保地域の最低湿地であった。寛永一〇年(一六三三)まで山城淀藩松平定綱領、正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳には「藤太村」とみえ、高一三一石余、山城淀藩永井尚政領。延宝年間(一六七三―八一)の河内国支配帳によると高一四七石余、永井直右(尚政の息)領三九石余・永井尚春(尚政の息)領一〇七石余。直右領は以後同家領として幕末に至るが、尚春領は元禄郷帳では永井安芸守(尚品か)領、元文二年(一七三七)の河内国高帳では幕府領。

藤田村
ふじたむら

[現在地名]寄居町藤田

寄居村の西に位置し、南は荒川を隔て男衾おぶすま折原おりはら村。村域は曹洞宗正龍しようりゆう寺と聖天しようでん宮の旧朱印地各二〇石の範囲で、そのため村は二分され、北半分の正龍寺以北は山地。幕末までは新寄居しんよりい村に属していたが、天保郷帳では男衾郡所属で、同郡牟礼むれい村枝郷として村名がみえる。ただし、荒川左岸において男衾郡とされた理由、および牟礼村の枝郷とされた理由はつまびらかでない。

藤田村
とうだむら

[現在地名]西都市藤田

三財さんざい村の東部に同村に割込むように位置する。東を三財川が流れ、三財村のうち下三財を南北に抜ける道が当村の西部を縦断する。本村の北西、加勢かせ村・平郡へぐり村・三財村が交わる辺りに飛地の久米田くめだがあり、さらに同所の北東、平郡・三納みのう清水きよみずの諸村の間に飛地の島田しまだがあった(日向地誌)。建久図田帳には前斎院(後白河皇女式子内親王あるいは高倉皇女範子内親王か)領として「藤太別符二十丁」がみえ、重直なる人物が名主であった。

藤田村
ふじたむら

[現在地名]栃木市藤田町

宮田みやた村の北に位置し、北は大宮おおみや村。湿地帯が多く北東部は沼沢地であった。慶長一四年(一六〇九)までは皆川広照領(延享元年「皆川歴代記」皆川又太郎文書)。慶安郷帳では田四二六石余・畑四〇石余で下総古河藩領。元禄郷帳では高五五一石余で旗本佐野・間宮の相給。天明四年(一七八四)の村明細帳(栃木市史)によれば幕府領分として高二七五石余・反別三〇町四反余、ほかは旗本間宮分。百姓家数一〇・人数五一、馬五、高札四。秣場は一里半余東の国分原こくぶはらで賄い、鎮守として星野宮ほしのみや権現・木野宮きのみや権現がある。改革組合村でも支配領主と家数は同じだが、旧高旧領取調帳では幕府領・足利藩領・常陸下妻藩領・旗本間宮の四給。

藤田村
とうだむら

[現在地名]須玉町藤田

釜無川支流しお川の右岸段丘上、標高五〇〇メートル付近に位置。東は塩川を隔てて下神取しもかんどり(現明野村)、南は大豆生田まみようだ村。釜無川下流域の人々が氾濫を避けて移住したという。慶長六年(一六〇一)の検地帳(県立図書館蔵)では麦田五町四反余・上田五町六反余・中田五町九反余・下田四町四反余・下々田二町九反余、上畑一町五反余・中畑一町六反余・下畑一町八反余・下々畑八反余、永不作田畑三反余、屋敷数二〇、桑一五三束半。

藤田村
ふじたむら

[現在地名]広川町藤田、久留米市荒木町藤田あらきまちふじた

一条いちじよう村の北東に位置し、広川が流れる。天正一六年(一五八八)八月より当村の惣右衛門が上広川庄内九ヵ村の大庄屋に補任され、同一七年村名が定められ、藤田村一五町とされる(稲員家記)。慶長七年(一六〇二)「藤田村庄屋居屋敷」の小物成が免じられている(八月八日「田中吉政印判状」梯家文書)。承応年中(一六五二―五五)東藤田村・西藤田村に分村するが、貞享年間(一六八四―八八)再び一村となる(稲員家記)

藤田村
とうだむら

[現在地名]臼杵市佐志生さしゆう 藤田・目明めあき

した村の北、臼杵湾の北西岸に位置し、北は佐志生村。枝村に目明村がある。慶長二年(一五九七)の臼杵庄検地帳写(渡辺家文書)に村名がみえ高三一〇石余、うち田方二一八石余・畑方九二石余、村位は上。別に佐志生村内に当村分として一〇〇石がある。同一一年の惣御高頭御帳では藤田村組に属し、高四〇九石余。同帳は同組惣庄屋に佐志生村の少右衛門と並び当村の孫右衛門を記し、また当村の村役人として清左衛門・次郎左衛門・衛門亮・作之亮・作右衛門をあげる。

藤田村
ふじたむら

[現在地名]会津高田町藤家館ふじいたて

藤川ふじかわ川右岸にあり、西の対岸は領家りようけ村。坂下ばんげ(現会津坂下町)から大内おおうち(現下郷町)を経て下野国に至る裏街道に沿い、慶安元年(一六四八)駅所に指定され、城下より当地へ継ぎ、当地から一里一五町五四間の市野いちの村へ継いだ。本村の東八町に小名梅津うめづがある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高五四九石余。

藤田村
ふじたむら

[現在地名]和歌山市藤田

名草なくさ郡に属し、西にし村の南東にあり、村内を金戸かなと川が南流する。天文一六年(一五四七)三月一五日付の山口庄中司等連署下地売渡状(国立史料館蔵名草郡古文書)の売人の加判者の一人又五郎大夫の肩書に「フチタ」とみえる。中世は山口やまぐち庄に属した。慶長検地高目録によれば高二五八石余、小物成五升五合。

藤田村
ふじたむら

[現在地名]菊池市藤田

下河原しもかわはる村の西にあり、北と南は山地が迫る。中央部を河原川が西流する。隈府わいふ町高札辻より約二〇町。天正一七年(一五八九)の検地帳に田一一町九反八畝余・畠一二町五反三畝余・山畠五町二反一畝余、分米二四八石八斗余とある。慶長一一年(一六〇六)一一月八日、加藤清正は当村と築地ついじ村を合せ二七〇余石の所領を窪田竹蔵に宛行った(「加藤清正黒印状」男成文書)

近世は河原手永に属し、「国誌」は小村に岩下を記す。文化一一年(一八一四)頃の河原手永手鑑に高二六八石二斗余、田一一町六畝余・畑一九町六反八畝余、竈数五五・人数三三九、牛馬八〇、氏神天満宮とあり、産物に牛蒡があげられる。

藤田村
ふじたむら

[現在地名]南那須町藤田

西戸田にしとだ村・入江野いりの村の東に位置し、おもな集落は蛇行しながら南東流するあら川左岸にある。同川を挟み南は小倉おぐら村。慶安郷帳では田高三一六石余・畑高四七二石余、烏山藩領。その後、幕府領、下総関宿藩領と替わり(元禄一一年「用水堰争論につき願書」菊池茂文書)、元禄郷帳では幕府領、旗本榊原・小林・下島・福島の五給。改革組合村では旗本小林・下島・榊原・花房の四給、家数四四。

藤田村
ふじたむら

[現在地名]常陸太田市藤田町

山田川の北に位置し、東は天神林てんじんばやし村。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「藤田村」とみえる。「新編常陸国誌」によると文化二年(一八〇五)の戸数七一、天保一三年(一八四二)の検地では田畠八七町余、分米九三三石余であった。

藤田村
ふじたむら

[現在地名]菊水町藤田

西境を菊池川が南流し、東・南は原口はるぐち村、北は前原まえばる村と接する。慶長一三年(一六〇八)の検地帳によると田七町六反二畝余・畠屋敷六町八反九畝・屋敷筆数四、分米一四三石九斗余、家数一一・人数一三、牛馬四。近世は内田手永に属する。明治一一年(一八七八)頃の戸数二六・人数一三四、馬一八、日本型船二(五〇石未満荷舟)、字湯浦ゆのうらにある湯浦溜池などを用水とする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の藤田村の言及

【瀬戸内海】より

…ほかに広島県でミカン,岡山県でモモ,ブドウ,小豆島でオリーブ,淡路島で花卉,タマネギなどの作物の栽培が盛んとなり,それぞれ特産地をなしてきた。また岡山県南部,児島湾の干拓新田である藤田村,興除(こうじよ)村(ともに現,岡山市)は,第2次大戦前から機械化による先進的農業経営が行われてきたところとして知られる。高度経済成長期以降,多くの資金や労働力を必要とする果樹やイグサの栽培は,より安価な山梨,福島(モモ)や熊本(イグサ)などへと主産地が移動する傾向がある。…

※「藤田村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」