藤沢村(読み)ふじさわむら

日本歴史地名大系 「藤沢村」の解説

藤沢村
ふじさわむら

[現在地名]入間市上藤沢かみふじさわ下藤沢しもふじさわ東藤沢ひがしふじさわ一―八丁目・東町あずまちよう五―七丁目

北東流する不老としとらず川沿いにあり、東は入曾いりそ村・水野みずの(現狭山市)、南ははやし(現所沢市)、北は扇町屋おうぎまちや村。東境近くをほぼ南北に通る江戸秩父道、中央を東西に横断する川越町へ至る新河岸道、上藤沢の字六道辻ろくどうつじに集中分岐する西方加治かじ丘陵からの道などの基幹道路が通り、江戸秩父道に並行して鎌倉街道の一本が通る。新河岸道の両側には民家・寺社・商家が集中する。不老川は現在の青梅市東部に源を発し、流域付近の湧水や雨水を集めて流れ新河岸川に合流する。年越しの季節に水が涸れ流水がなくなるため、年を取らないとして、年不取としとらず川ともよばれるという。その南を流れる林川は林村付近の湧水・雨水等を水源とする川で、北東流して入間川いるまがわ(現狭山市)地内で不老川に合流する。真夏の暑い日に当地域を旅する人が眼前に見える川の方向に歩いていっても、彼方に流水が逃げてしまうことから逃水にげみず川ともよばれたという。「武蔵野話」などに武蔵野の逃水について記されている。小田原衆所領役帳では他国衆山口平六知行地として「山口内大かね藤沢分小野分」四〇貫文がある。

藤沢村
ふじさわむら

[現在地名]北上市飯豊町いいとよちよう 藤沢、常盤台ときわだい一―三丁目・つつみおか一―二丁目・上野町うえのちよう三丁目・流通センターりゆうつうせんたー

村崎野むらさきの村の南西、北上川の支流和賀川左岸の洪積台地上に位置する。文和三年(一三五四)八月二〇日当地で没して荼毘に付されたという時宗遊行上人の塚があり、地名は時宗総本山清浄光しようじようこう(現神奈川県藤沢市)のある相模国藤沢との因縁によると考えられる(北上市史)。和賀川左岸沖積地に面する台地縁辺部には旧石器時代や縄文時代・奈良時代・平安時代の遺跡がある。昭和六三年(一九八八)発掘された製銅工房跡は奈良時代末期のもので、当地方が平安時代初期律令国家の支配下に置かれる以前、新しい生産技術が導入されていたことを証するものとして注目されている。

藤沢村
ふじさわむら

[現在地名]山都町相川あいかわ

川隅かわすみ村の北、いち川の中流域山間に位置する。同川は支流五枚沢ごまいざわ川を当地で合せる。本村の南に小名たつはらがあり、本村の北に廻戸まわりと沢口さわぐち撫木なでき、南西に白子しろこどうさわ、北西に本木もとき、北東の五枚沢川沿いに上藤沢かみふじさわの各端村があったが(新編会津風土記)、文化年中(一八〇四―一八)頃、撫木・廻戸・沢口は撫木分として、本木・道ヶ沢は本木分としてそれぞれ分村した。

藤沢村
ふじさわむら

[現在地名]立科町藤沢

立科たてしな町の北部に位置し、北は八重原やえばら台地、東は鹿曲かくま川の断崖で、鹿曲川の支流藤沢ふじさわ川沿いにある。

天文二二年(一五五三)二月、武田晴信が依田春賢に「藤沢・ハゲ山・塩川合テ仁百貫文ノ替地」を安堵せしめている(高白斎記)のが初出。寛永元年(一六二四)八月の松平五郎新知郷村引渡証文(清水貞夫氏蔵)では一二三石の村。別府べつぷ歩在家あるきざいけ・一八塚等の小字名を残し、枝郷蟹原かにはらには滋野氏一族の蟹原重幸なるものの居城と伝える蟹原城跡がある(旧版北佐久郡志)

藤沢村
ふじさわむら

[現在地名]鶴岡市藤沢

田川湯たがわゆ村の東、金峯きんぼう山の西麓に位置し、金峯山登拝道の裏口にあたる。大山おおやま川支流藤沢川が流れる。湯田川ゆたがわ長福ちようふく寺蔵の縁起によれば、後三年の役で敗れた清原氏父子の魂が大蛇となり、隣の「淵沢邑」の大池に棲んだとある。また「筆濃余理」には古くはうめさわといい、田沢家の伝書にみえる梅沢右衛門を当地の領主かとしている。

藤沢村
ふじさわむら

[現在地名]瀬峰町藤沢

集落の多くは、南東流して蕪栗かぶくり(現遠田郡田尻町)に注ぐ瀬峰川の両側に立地する。南東部に瀬峰宿があり、村西を北上する奥州街道の高清水たかしみず宿(現高清水町)と、北東の北方きたかた佐沼さぬま宿(現登米郡迫町)などを結ぶ。寛永一八年(一六四一)の検地帳(瀬峰町教育委員会蔵)によれば、田六〇町七反余・六九貫一三文、畑二四町五反余・七貫七二文。竿答人五六、うち肝入一・検断一・新百姓六・家中六となっている。正保郷帳では田六五貫四五四文・畑六貫三七九文で水損と注され、ほかに新田四貫七二一文。

藤沢村
ふじさわむら

[現在地名]新治村藤沢

台地上にあり、西は高岡たかおか村。中世は南野みなみの庄に属し、応永一二年(一四〇五)一〇月三日の当院支配在所注文(税所文書)に「南野庄藤沢郷」とある。江戸時代は土浦藩領で、「寛文朱印留」に村名が載る。「県方集覧」(酒井泉氏蔵)によれば、慶安四年(一六五一)藩主朽木稙綱によって検地が行われ、元禄郷帳の村高は一千一〇一石余。山根やまね八ヵ村の一つで藺草栽培が行われ、「新編常陸国誌」によれば、本町ほんまち東町ひがしまち池之台いけのだい十三塚じゆうさんつか坂下さかしたなどの坪に分れていた。

藤沢の西端、国道一二五号沿いに旧村社八坂神社(祭神素佐之男命)がある。

藤沢村
ふじさわむら

[現在地名]相馬村藤沢

相馬川の下流左岸に位置する。北は坂市さかいち村、東は川を隔てて水木在家みずきざいけ村、南は相馬村に接し、西は参詣さんけい(二〇九・六メートル)に続く山林を背負う。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の鼻和はなわ郡に村名がみえ、村高は一五石、うち田方一四・一六石、畑方〇・八四石である。貞享四年(一六八七)の検地帳によれば相馬村の支村で、村高は四五・四六四石、うち田方三七・六九三石、畑方七・七七一石。駒越組に属し、元禄三年(一六九〇)の村位は中(平山日記)。享保一一年(一七二六)相馬村より独立した(「村名改称并新村創立調」八木橋文庫蔵)

藤沢村
ふじさわむら

[現在地名]豊田市藤沢町

矢作川の市域最上流部に位置し、険しい山間にあって、現在阿摺あずりダムがある。小字に古屋敷ふるやしきがあり、中世における三宅氏の藤沢城が築かれたところと伝える(豊田市史)。寛永郷帳時には幕府領、元禄郷帳時には大浜おおはま役所(現碧南市)の松平与右衛門領、旧高旧領取調帳では、旗本青山三之助領となっている。字ほらの真宗大谷派極楽ごくらく寺は文明年中(一四六九―八七)の創建と伝える。寛文―延宝期(一六六一―八一)には、針崎はりさき(現岡崎市)勝鬘しようまん寺の末寺となっている。

藤沢村
ふじさわむら

[現在地名]平内町藤沢

東は小湊こみなと村、南は前高森まえたかもり山で田茂木たもぎ村、西は山口やまぐち村、北は盛田もりた川で盛田村と接する。小湊村の浄林じようりん寺は当初、天文年間(一五三二―五五)当村に開かれたといい、国道四号の北側一帯は藤沢城跡で加賀国から来た佐々木氏の居城であったというが、年代などは不明(「平内志」平内町史)

天文年間の津軽郡中名字に「小湊」「平内」とあり、平内はこの藤沢をさすと考えられる。正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳に高一九六・三二石、うち田方一七九・三石とあり水田耕作中心の村であった。元禄二年(一六八九)の黒石平内巳年郷帳(市立弘前図書館蔵)には高二二四・五九石、うち田方二〇三・一九四石、畑方一七・九二石、屋敷方三・四七六石とある。

藤沢村
ふじさわむら

[現在地名]三国町藤沢

三国湊の東南に位置し、竹田たけだ川と兵庫ひようご川の合流点東方の自然堤防上にある。河口庄田地引付(大乗院文書)に記されている弘安一〇年(一二八七)の河口庄検注記録には別当名として藤沢名が記され、本庄郷に一五町九反六〇歩、大味郷に四反一二〇歩、兵庫郷に三町九反一八〇歩がある。室町時代中期以前の記録である「坪江下郷三国湊年貢夫役等事」(同文書)にも、坪江つぼえ下郷内の下司名として藤沢名(本田・新田・算失田合計三一町一反小)が記される。

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では新郷に含まれていた。村名は正保郷帳にみえ、田方一二〇石・畠方一二九石余。

藤沢村
ふじさわむら

[現在地名]矢巾町藤沢

西徳田にしとくた村の北、北上川右岸に位置し、西は北矢羽場きたやはば村、北は高田たかた村。奥州街道が通り、「増補行程記」に盛岡と郡山こおりやま(現紫波町)のほぼ中間にあたる旨の注記や街道筋の松並木のほか、稲荷社の鳥居、それに隣接して栗林などがみえる。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付に村名がみえ、蔵入高六九六石余、七ヵ年平均の免四ツ一分六厘八毛。元禄十郡郷帳では高田村に入るとある。「邦内郷村志」では蔵分五八八石余、家数三八、馬六六。

藤沢村
ふじさわむら

[現在地名]中井町藤沢

村央を藤沢川が南流し、西南村境を中村なかむら川が流れ、東は井口いのくち村、西は比奈窪ひなくぼ村、南は久所ぐぞ村、北はさかい村と接し、大山道が南北に通る。五所ごしよみや六名の一つ。小田原衆所領役帳に伊東九郎三郎「弐拾壱貫九百七拾文 中郡赤羽禰藤沢温水共」、平川左衛門「弐拾弐貫四百六拾文 中郡藤沢二寮分友牛」とある。

藤沢村
ふじさわむら

[現在地名]荒川町藤沢

北西は村、南は坂町さかまち村に接する。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には坂町村の北方、荒川寄りに「土沢村 下」がみえ、「本納合拾七石弐斗 縄ノ高合七拾弐石□斗弐升弐合 家五□」とある。この村が災害などののち移転して当村が成立したとされる。また平内へいない新田(現関川村)を開発した平田平内の叔父平田善四郎により開かれたともいわれる(平田家文書)。開発の年代は不明。正保国絵図に「藤沢村 五十石余」とある。

藤沢村
ふじさわむら

[現在地名]中郷村藤沢

北国街道に沿い、南は坂本さかもと新田、北は板橋いたばし新田に続く。正保国絵図に村名があり、高一三六石余。天和三年郷帳では高二三四石六斗余、うち山高二五石二斗・漆高一斗とある。旧高旧領取調帳では高二八二石三斗余。かつては片貝かたかい川に沿った古道沿いにあったが、近世初期に新道が開かれると、新道沿いに移されたと伝える。村域東部にある諏訪神社の大杉は樹齢数百年で、境内に中世のものと思われる大日如来石仏が祀られ、付近に古屋敷・舞台などの地名がある。

藤沢村
ふじさわむら

[現在地名]大田原市藤沢

塩那えんな丘陵上にあり、村の中央を権津ごんづ川が東へ流れる。北西は佐久山さくやま町、南は下河戸しもこうと(現塩谷郡喜連川町)。天保年中(一八三〇―四四)の改革組合村に村名がみえ、旗本福原領、家数四。天保郷帳には記載されず、おそらく佐久山町の高に含まれると思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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