藤巻村(読み)ふじまきむら

日本歴史地名大系 「藤巻村」の解説

藤巻村
ふじまきむら

[現在地名]穴水町藤巻

日詰ひづめ川支流の渓谷に沿い、南は波志借はじかし村・かじ村、北は木原きわら村。領主の変遷は梶村に同じ。土方雄久知行目録に村名があり、高一六九俵、うち荒八八俵で、残高の四割が百姓得分。正保郷帳では高八四石余、田方四町八反余・畑八反余。正保五年(一六四八)木原村白山神社再興棟札銘に願主として藤槙の名がある。延宝三年(一六七五)土方領梶村、加賀藩領中居なかい町・木原村・波志借村との境界が定められた(「境界絵図」神杉神社蔵)。貞享四年(一六八七)の家数一〇(うち役家九)・人数六二、牛馬一二(加賀藩史料)

藤巻村
ふじまきむら

[現在地名]出雲崎町藤巻

馬草まぐさ村の南、東は柿木かきのき村、南は神条かみじよう村・滝谷たきや村、西の島崎しまざき川対岸は沢田さわだ村。永享二年(一四三〇)二月二七日の室町将軍家(足利義教)御教書(菊大路文書)乙面おとも保内に「中条藤牧分竹屋内免金鉢名」がみえる。正保国絵図に高二五四石余で幕府領。その後高田藩領となり、天和三年郷帳では高二四九石二斗余のうちに山高一石三斗・漆高三斗が含まれる。元禄一四年(一七〇一)高田藩稲葉氏が下総国佐倉藩主となって以降、同氏領が続き、天明六年(一七八六)まで脇野町わきのまち陣屋の支配下にあった。同年に幕府領となり脇野町代官所支配。文政元年(一八一八)出羽国上山藩領となり、七日市なのかいち陣屋支配。

藤巻村
ふじまきむら

[現在地名]田富町藤巻

笛吹川右岸に位置し、北は西花輪にしはなわ村、東は馬籠まごめ村があり、南は笛吹川が西流する。渡船場があり、当村から船頭二人が年番で勤めた。慶長六年(一六〇一)検地帳(県立図書館蔵)には藤巻之郷とあり、五冊のうち三冊しか残っていないが、三冊の合計は上田一町一反余・中田一町四反余・下田五町一反余・下々田三町三反余、上畑九反余・中畑二町六反余・下畑二町七反余・下々畑六町七反余、桑一〇八把、熊蔵荒田七反余・同荒畑四反余、屋敷三千五四八坪である。

藤巻村
ふじまきむら

[現在地名]上志比村藤巻

越前中央山地の北麓に位置し、北西竹原たけはら村、南東吉峰よしみね村。北は勝山街道が通る。慶長三年(一五九八)七月一三日付越前国吉田郡志比庄之内竹原村御検地帳(「上志比村史」所収)に「藤巻出作」とみえ、隣村竹原村へ出作していた。同一一年頃の越前国絵図では「志比上庄」に含まれていたと思われる。正保郷帳によると、田方一六七石余・畠方一九七石余。享保四年(一七一九)志比境しひざかい(現松岡町)との村替により福井藩領から幕府領となり(御用留抜書)、文政三年(一八二〇)再び福井藩領となった。

藤巻村
ふじまきむら

[現在地名]大門町藤巻

布目沢ぬのめざわ村の北、和田わだ左岸に位置。天正一一年(一五八三)八月二〇日佐々成政が家臣の槻尾甚助に与えた知行方目録(水越家文書)に「四拾俵之所 中郡藤巻村」とある。正保郷帳では布目沢村の項に「藤牧村共」とあり、また別に一村として書上げられている。高二四三石余、田方一五町七反余・畑方五反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると明暦二年(一六五六)に検地引高五七石があり、この時の草高一九七石、免四ツ三歩、ほかに万治元年(一六五八)の新田高三石(三箇国高物成帳)

藤巻村
ふじまきむら

[現在地名]上越市藤巻・山屋敷やまやしき

せき川の左岸、木田きだ新田村の南に位置し、高田城下に発する北陸街道(加賀街道)が通る。小字名に浄土街道・大海道があり、戦国時代までの北国街道との関連が推測される。天正六年(一五七八)の御館の乱の際、上杉景虎救援のため甲斐の武田勝頼が越後に入ったが、同年六月一九日には藤巻原に兵を進めている(越後古実聞書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報