藤川村(読み)ふじかわむら

日本歴史地名大系 「藤川村」の解説

藤川村
ふじかわむら

[現在地名]本川根町藤川、中川根なかかわね文沢ぶんざわ

遠江国榛原郡千頭せんず村の東、大井川中流左岸に注ぐ小長井河内こながいこうち川下流に位置する。駿河国志太しだ郡のうち。遠江国藤川村(現中川根町)と区別するため上藤川かみふじかわ村ともいう。また小長井こながい村ともよぶ。康永三年(一三四四)四月一五日の智者山ちしややま神社棟札(同社蔵)に富士河刑部丞がみえるが、これは当地の者と考えられ、馬一疋と絹・銭一貫文などを寄進している。なお同棟札は智者山神社の所在を「駿河国徳山鴇郷」と記す。護応土ごおうど(五応度)城は静岡市との境の山間、通称名富士城ふじしろにあったとされる南北朝期の城。文和二年(一三五三)二月一八日今川範氏は同城を攻撃し、戦功をあげた伊達景宗を賞している(「今川範氏書下」駿河伊達文書)。同城は鴇氏の徳山とくやま(現中川根町)の支城とみられる。戦国期当地の天王てんのう山には武田氏によって天王山てんのうざん城が築かれ、守将として三浦右馬之介の名が伝えられているが(享保一六年「村明細帳」芹沢家文書)、これは武田家臣の三浦右馬助員久のことであろう。

藤川村
ふじかわむら

[現在地名]伊吹町藤川

上平寺じようへいじ村の南東に位置し、東は美濃国たま(現岐阜県不破郡関ヶ原町)北国脇往還が通り、藤川宿が置かれた。集落は本集落の藤川と上平寺村に近い寺林てらばやしからなり、両集落間を藤古ふじこ川が南流、地内の鉋掛かんなかけ川・奥出おくで川・杓谷しやくたに川を合せ美濃側に東流する。藤古川は藤子川とも書き、古くは藤川とも称し、村名はこれに由来するという(坂田郡志)。鉋掛川沿いにもと金糞かなくそ地蔵を祀ったという跡があり、採鉄をうかがわせる川名である。また寺林のほか枝郷の暖水ぬくみ村があったというが未詳。「輿地志略」によれば、当地に藤原定家の寓居跡があり、定家はここに三年ほど滞留、定家梅・定家石などの遺跡を伝えるという。

藤川村
ふじかわむら

[現在地名]七山村大字藤川

七山川の右岸からうき岳山嶺に属する岳・黒木くろき山・高尾たかお山・烏帽子えぼし山・鶴牧つるまき山の山腹にかけての村。下方より藤川・野井原のいばる林上はやしのうえの三集落がある。浮岳と女岳の稜線に荒谷あらたに峠があり、野井原を経て筑前への道となっている。たき川と七山川の合流地に位置する藤川は七山郷の中心地である。正保絵図に「藤川山村」とある。

奈良・平安期、大宰府から松浦郡衙への通路になっており、やま(→厳木町北山ほくざん(佐賀郡)への道と、筑前への道との分岐点になっていたという。

藤川村
ふじかわむら

[現在地名]三島町藤川

くろ川左岸にある。東は瓜生うりゆう下河根川しもこうねがわ、西は気比きいみや、北は宮沢みやざわ、南は脇野町わきのまちの各村に接する。気比神社社記(八田国雄氏蔵)によれば、養老年中(七一七―七二四)のちの吉河よしかわ庄内に一二の屯倉があったと伝え、そのなかの下条げじようが当村辺りという(三島町史)。元和六年(一六二〇)長岡藩領、寛永一一年(一六三四)与板藩領、途中一時幕府領となるが再び与板藩領に復し、文政三年(一八二〇)長岡藩領となり幕末に至る。元和六年の長岡藩知行目録に高五九〇石余。正保国絵図に高六〇〇石余。安政五年(一八五八)の戸数五五で(長岡の歴史)、一戸当りの平均持高は一〇石九斗余。

藤川村
ふじかわむら

[現在地名]中川根町藤川

水川みずかわ村の北東、大井川中流右岸に位置し、支流榛原川が大井川に注ぎ、村を二分している。遠江国榛原郡のうち。上流の駿河国志太しだ郡藤川村(現本川根町)と区別するため、当村を下藤川しもふじかわ村とよぶこともある。応永六年(一三九九)一二月一三日の今川仲秋書下(富田仙助氏所蔵文書)に「山香庄領家職東手村内藤河」とあり、天野遠江入道景隆に兵粮料所として預け置かれている。正保郷帳に村名がみえ、田方永二貫九一〇文・畑方永四四貫八八六文、幕府領、ほかに八幡領永八〇〇文・天王領永四〇〇文・観音領永一貫二四四文。

藤川村
ふじかわむら

[現在地名]東郷町藤川

東郷の北部に位置。北方の紫尾しび山系から南流する田海とうみ川上流域を中心として南北に長い広大な山村。南は宍野ししの村、東は宮之城みやのじよう泊野とまりの(現宮之城町)、東は鳥丸とりまる村、西は高城たき城上じようかみ(現川内市)、南西は田海村(現同上)、北は高尾野たかおの郷・野田のだ郷、北西は阿久根郷。田海川上流は古来藤川と称したという(東郷町郷土史)。戦国期末から近世初頭のものと推定される年欠一一月一〇日の出水公方向用途支配注文(清色亀鑑)に「藤河分六町 一貫文」とみえる。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳では高三一四石余。「三州御治世要覧」では延享(一七四四―四八)頃の高四一四石余。旧高旧領取調帳では高四三一石余。

藤川村
ふじかわむら

[現在地名]上勝町正木まさき

傍示ほうじ村の東に位置し、北西部にあさひヶ丸・高鉾たかほこ山などが連なり、藤川谷ふじかわたに川が勝浦川支流の旭川に注ぐ。地内の金輪こんりん寺境内の応永一八年(一四一一)の天神鰐口銘に「藤川金輪寺」と記される。寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図に「藤川村」とみえる。正保国絵図では勝浦山坂本さかもと村のうちと考えられ、「勝浦山の内 藤川村」とみえる。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では勝浦山坂本村の枝村として記載される。

藤川村
ふじかわむら

[現在地名]玉村町藤川

東は飯塚いいづか村、南は樋越ひごし村、西は力丸りきまる(現前橋市)、北は中内なかうち(現同上)。村のほぼ中央を西北から南東にかけて藤川が流れる。同川は群馬郡朝倉あさくら(現同上)東北部で幾つかの小水路を合せ、房丸ぼうまる徳丸とくまる・力丸(現同上)などの諸村を経て、西上之宮にしかみのみや村地内(現伊勢崎市)利根川に注ぐ当地域の主要な灌漑用水である。寛永二年(一六二五)当村一四九石余が駒井右京進に与えられた(記録御用所本古文書)

藤川村
ふじかわむら

[現在地名]邑楽町藤川

秋妻あきづま村の南に位置し、東は下野国梁田やなだ羽刈はかり(現栃木県足利市)、南は中野なかの村、西は石打いしうち村など。太田往還が村中央を東西に通る。一五世紀半ば頃(年月日欠)の岩松持国闕所注文(正木文書)に藤河五郎四郎知行分として藤河郷がみえる。天正一九年(一五九一)館林城主榊原氏により検地が行われ、佐貫庄小泉領藤川之郷検地帳(写、山崎文書)が残る。検地は同年閏正月六日から始められ同一五日終了。筆数九六三、総反別一一〇町一三八歩。寛文元年(一六六一)の領内一村一人宛出頭方申渡(大島文書)に村名がみえ、館林藩領。

藤川村
ふじかわむら

[現在地名]西目屋村藤川

岩木川上流左岸の山裾に位置し、北は村市むらいち村、南は川を隔てて居森平いもりたい村に接する。

貞享四年(一六八七)の検地帳に村市村の支村とあり、村高は三三・三一二石、うち田方五・五七四石、畑方二七・七三八石である。同検地帳の貼紙によれば享保一一年(一七二六)本村として独立した。「平山日記」の翌一二年の項に「駒越組之内川原平新田弐ケ村(中略)下五藤川村」とあり、駒越組に属し、村位は下、免は五ツであった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

排外主義

外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...

排外主義の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android