葛川(読み)かつらがわ

精選版 日本国語大辞典 「葛川」の意味・読み・例文・類語

かつらがわ かつらがは【葛川】

(「かづらかわ」「かづらがわ」とも) 滋賀県大津市北部安曇(あど)川上流の地域名。

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百科事典マイペディア 「葛川」の意味・わかりやすい解説

葛川【かつらがわ】

近江国滋賀郡,現大津市の北部で,比良(ひら)山地西の安曇(あど)川渓谷に沿った山間地。天台修験道聖域であるが,山林資源を生活の糧とする(そま)人の商業活動や定住化により,鎌倉期には道場無動寺(明王院)の所領として荘園的性格を持つようになる。無動寺を管領していた京都青蓮(しょうれん)院本所とし,無動寺を領家とする。荘園の枠外にあるため境界の認定が曖昧で,室町初頭まで隣接諸荘園との境相論(さかいそうろん)が頻発した。なお住民は在家保有を認められた住人と新たに流入した浪人に分けられ,住人は明王(みょうおう)院の修理役負担のみで,田畑への公事(くじ)は賦課されなかった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「葛川」の意味・わかりやすい解説

葛川
かつらがわ

近江国滋賀郡の山間村落。現在の滋賀県大津市葛川地区にあたる。比叡山延暦寺の回峰行者(かいほうぎょうじゃ)衆の修験道場として、9世紀中ごろに相応(そうおう)によって同地に明王院(みょうおういん)が建立されたのが始まり。のちに延暦寺の門跡(もんぜき)寺院青蓮院(しょうれんいん)と、延暦寺を構成する無動寺(むどうじ)による領主支配を受けた。山岳修験の霊場であったため、同地の開発は領主によって厳しく制限されたが、平安時代末期以降、近隣荘園の住民や、葛川の住民の手による山野の開発が進行すると、境界をめぐっての近隣荘園との争いがたびたび発生した。わけても、1317年から1319年(文保1~元応1)にかけての伊香立荘(いかだちのしょう)との争いは著名で、そのおりに作成された2葉の絵図が現存する。こうした事態の進行によって、領主側がとった、葛川に居住する住民数の制限政策や、開発抑制政策は、有名無実化していった。室町時代になると、山野や耕地の開発はさらに進展し、16世紀には、今日の字名につながる諸集落が成立した。

坂田 聡]

『坂田聡著『日本中世の氏・家・村』(1997・校倉書房)』『水野章二著『日本中世の村落と荘園制』(2000・校倉書房)』『高木徳郎著『日本中世地域環境史の研究』(2008・校倉書房)』

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世界大百科事典(旧版)内の葛川の言及

【境相論】より

…彼らの田畠や山野河海における生産諸活動の新たな展開が,境相論を何度も繰り返させたのであった。近江の山間の霊場葛川(かつらがわ)の場合,隣荘伊香立荘との境相論を,鎌倉時代だけでも1218年(建保6),56年(康元1),69年(文永6),83年(弘安6),1317年(文保1)から翌年,29年(元徳1)から翌年にかけての計6度も繰り返している。中世後期になると,境相論の法的原則は,〈根本の道理に任せて,公方の御沙汰たるべし〉とか〈何様にも公方へ訴訟申すべし〉とされているが,実際には荘園領主は訴訟の形式的仲介に立つだけであり,幕府や守護も刑事事件の処理以上のことはしなかった。…

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