花園町(読み)はなぞのまち

日本歴史地名大系 「花園町」の解説

花園町
はなぞのまち

面積:一五・八三平方キロ

明治二九年(一八九六)成立時の大里郡中央部南西寄りに位置し、現在東は川本かわもと町、南と西は寄居よりい町、北は寄居町と深谷市に接する。町域西端の鐘撞堂かねつきどう(三三〇・二メートル)から西部を縦断する国道二五四号付近までは山地で、他は標高七〇メートルから一二〇メートルの緩やかな傾斜をもった平坦地である。町の南端を荒川が東流。鐘撞堂山から流出する水を集めた亀住かめすみ川は蟹沢かにさわ排水路に入って東流し、永田ながたで荒川へ注ぐ。関越自動車道が中央部を南東から北西へ通り、南東端部に花園インターチェンジがある。秩父鉄道と国道一四〇号(旧秩父往還)が東西に並行して走り、黒田くろだ川本町からの国道一四〇号バイパスと交差する。その後、一四〇号バイパスは花園インターチェンジ出入口を経て、国道一四〇号の南側を並走する。JR八高線は国道二五四号東側を南北に並行して走り、北部を東西に北武蔵広域農道が通る。

花園町
はなぞのちよう

[現在地名]函館市花園町・深堀町ふかぼりちよう

昭和一一年(一九三六)から続く町。同年六月に亀田かめだ郡湯川村が湯川町となった時、旧大字下湯川村の字寺野下てらのした・字芳堀よしぼりの各一部を中心に字寺野・字寺ノ下てらのした・字芦堀あしぼりの各一部を加えて、字花園町とした(湯川町字地番改正調書)。花園の由来は函館の種苗店や生花店の花畑が多くあったという説が一応有力であるが、「函館地名考」は「別に花園があるわけではない」と記している。昭和一一年の字花園町の戸数一二(湯川沿革史)。同一四年に湯川町は函館市と合併し、函館市字花園町となり、翌年同市花園町となった。

花園町
はなぞのちよう

下京区醒ヶ井通北小路下ル

興正こうしよう寺の全域を含む町で、北を北小路きたこうじ(旧北小路)、南を七条しちじよう(旧七条大路)、東を堀川ほりかわ(旧堀川小路)に囲まれる。

平安京の条坊では、左京七条二坊二保五町東側と三保一二町西側の地。平安京の官設市場である東市ひがしのいちの地にあたる(拾芥抄)

天正一九年(一五九一)本願ほんがん寺とともに大坂天満おおさかてんま(現大阪市北区)より移転した興正寺が、本願寺の南側の現在地に寺地を定めた。

花園町
はなぞのちよう

[現在地名]小樽市花園一―五丁目・入船いりふね一丁目

明治一七年(一八八四)頃より同三二年まで存続した町。山田やまだ町の西にあり、西は小樽公園。明治三、四年頃、櫛形くしがた山と称されていた当地を森谷栄作が無償払下げを受けたが、未開墾のままで、同一四年小樽郡長(北川誠一)により小樽・高島たかしま両郡の公園用地として上地された。のち市街地が北に広がり、当地も街区をなした(小樽市史稿本)。同一五年に花園町が置かれたというが(状況報文)、同一七年ともされる(小樽市史稿本)

花園町
はなぞのまち

[現在地名]松山市花園町

松山城下町の南西部に位置し、えのき町に平行してその西を南北に通る町筋とその周辺部を含む。東は西にし町、西は新玉あらたま町、南は弁天べんてん町、北は出淵いでぶち町に接する。元禄年間(一六八八―一七〇四)の記事を載せた「松山町鑑」(伊予史談会蔵)をはじめ、各種の城下町図に町名がないことから考えると、江戸後期に花園町と公称されるようになったのであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報