花園村(読み)はなぞのむら

日本歴史地名大系 「花園村」の解説

花園村
はなぞのむら

[現在地名]左京区岩倉いわくら大鷺おおさぎ町・花園町・三宅みやけ町〉

岩倉の東、高野たかのの北にあたり、大谷おおたに山より流れでる花園川に沿う谷内集落。

村名について二説がある。一つは康永元年(一三四二)花園上皇が妙心みようしん(現右京区花園)を創建した際、寺地にある清原家領を上地し、替地として清原良枝にこの地を賜り、以来花園とよぶようになったとするもので、黒川道祐「北肉魚山行記」(天和二年)にその早い例をみる。これに対し後三条天皇の孫源有仁(花園左大臣)の子孫一族がこの地に移り、私第をもうけたことに由来するという説が正徳元年(一七一一)刊「山城名勝志」等に記される。

花園村
はなぞのむら

[現在地名]徳島市国府町花園こくふちようはなぞの

北岩延きたいわのぶ村の北西にあり、東は北西流する逆瀬さかせ(鮎喰川支流)を挟んで南新居みなみにい村。建武二年(一三三五)九月二〇日の阿波守頼氏請文写(疋田家本離宮八幡宮文書)によれば、頼氏は「阿波国花園住人七郎左衛門」の違乱を再度訴えた八幡宮(山城石清水八幡宮か)に対し、七郎左衛門は家人でないので在所の地頭が沙汰すべきであると返答している。この阿波守頼氏は守護家小笠原氏の一族で、当時一宮いちのみや城にいた一宮氏と考えられる。天正一二年(一五八四)一一月一四日の某所領宛行状(土佐国蠹簡集拾遺)には、田所兵部丞に宛行われた五町四反一五代の坪付として「花薗ノ同し東川フチ」の二反四〇代などがみえる。また同日付の某所領宛行状(土佐国蠧簡集)に土居重兵衛に与えられた五六ヵ所・八町四反四五代のうちにみえる「池ノフチ村」は、当村の字いけふちにあたるとみられる。

花園村
はなそのむら

[現在地名]和田町花園

しば村の北東に位置し、海に面する。伊南房州通いなんぼうしゆうどおり往還が通る。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に村名がみえ、高四五七石余、うち田方二三四石余。里見氏直轄領。同一一年・一五年の里見家分限帳では給人領。元和六年(一六二〇)東条藩領となり、以後は柴村と同様の変遷をたどる。正保郷帳では田高二〇〇石余・畑高一五七石余。以後、村高に大きな変動はない。天和二年(一六八二)の年貢割付状(花園区有文書)によると、田は五斗八升取で取米二三四俵二斗余、新田の取米は二〇俵一斗、畑の取永金二五両三分と六三文、新畑の取永二分と九八三文。

花園村
はなぞのむら

[現在地名]豊田市花園町

市域南端部に位置し、逢妻男あいづまお川が集落の東側を流れる。近世初めは刈谷藩領。寛文一一年(一六七一)から同族の稲垣淡路守が吉原よしわら村に陣屋を置いて支配し、元文五年(一七四〇)幕府領、安永七年(一七七八)から沼津藩領となって明治に至る。

元禄一〇年(一六九七)の奥書のある寛永一〇年(一六三三)の三河国碧海郡花園村検地帳田方帳・同畠方帳(花園区有)によれば、田方帳には名請人・地主および吉原・中根なかね村分の田地を一筆ごとに明示してある。

花園村
はなぞのむら

[現在地名]七尾市花園町

富山湾に注ぐ熊渕くまぶち川北岸に沿い、北は黒崎くろさき村。地名は黒崎村せきにあった真言宗道場に供える花を栽培していたことによるという(鹿島郡誌)。初め加賀藩領。土方雄久知行目録に村名がみえ、慶長一一年(一六〇六)から高二一〇俵余が土方領。うち三割五分は百姓得分。領主の変遷は八幡やわた村に同じ。正保郷帳では高一一一石余、田方四町五反余・畑方二町九反余。貞享四年(一六八七)の家数一九(うち役家一五)・人数一五三、馬一八(加賀藩史料)。享保六年(一七二一)の幕府領小物成帳(室木文書)では免四ツ七歩、苦竹役一匁余、室屋役七ヵ村のうちの一村で三匁を上納。文久四年(一八六四)の高一一一石余、免二ツ三歩八厘、小物成は山手米三石余・口米三石余・夫米三石余、高役永一貫三九四文余・棟役永一貫二五〇文・室役五〇文・苦竹役永八文余・歩入永二七〇文余・油絞冥加永七〇文など、ほかに伝馬宿入用米九升余・蔵米入用永三九七文余(「成箇免定之写」青木文書)

花園村
はなぞのむら

[現在地名]下山村花沢はなざわ

ともえ川の支流郡界ぐんかい川の右岸に沿い、東は大沼おおぬま村、南は田代たしろ村、西は長嶺ながみね村、北は柵之沢ませのさわ村に接する。集落は小起伏面上に点在。国道三〇一号と県道坂上―花沢線が通る。寛永一二年(一六三五)当時、刈谷城主松平忠房領。慶安四年(一六五一)大島おおしま(現足助町)に陣屋を置く旗本石川貞当の知行地となり、明治に至る。

浄土真宗華林山易往いおう寺がある。

花園村
はなぞのむら

[現在地名]北茨城市華川はなかわ町花園

花園川の上流に位置し、多賀山地の脊梁をなす高山が連なる山村。東は上小津田かみこつだ村。

「吾妻鏡」治承四年(一一八〇)一一月の条に、源頼朝に敗れた佐竹秀義が「赴奥州花園城之由」とある花園城は、当村の花園山といわれる(常陸紀行)。文禄四年(一五九五)岩城領検地目録(静嘉堂文庫蔵)には「弐百拾八石四斗三升九合 (車領)花薗」とみえる。慶長七年(一六〇二)村高のうち五〇石が花園神社の朱印地、他は戸沢政盛領となった。のち戸沢氏領分は棚倉藩領となり、領主は丹羽氏・内藤氏と続き、寛文一一年(一六七一)内藤氏の分家が旗本内藤家を創立するにあたってその知行所となった。

花園村
はなぞのむら

[現在地名]棚倉町花園

伊野上いのかみ村の北、八溝やみぞ山地北端部丘陵に立地し、村内を根子屋ねこや川が流れる。江戸時代の領主の変遷は伊野上村と同じ。慶長八年(一六〇三)の検地帳(鈴木家文書)によれば、田六町六反余・分米六八石余、畑屋敷六町一反余(うち屋敷一反余)・分米三三石余。正保郷帳では高一〇二石余、うち田六九石余・畑三三石余。元禄郷帳では高八八石余。棚倉城下に隣接。日蓮宗長久ちようきゆう寺の山門は棚倉城南門を藩主太田資晴が寄進し移築したものと伝える。

花園村
はなぞのむら

面積:四八・二四平方キロ

伊都郡の南端に位置する。北は高野こうや町、北西はかつらぎ町および海草郡美里みさと町、南西は有田郡清水しみず町、南東は奈良県に接する。村域は有田川の最上流部にあたり、全体が山地で、集落は有田川およびその支流の谷間に点在する。高野山と日高郡龍神りゆうじん村を結ぶ国道三七一号が村の東部を南北に通り、有田川沿いに当村域に入る道が村内中南なかみなみで結ばれる。また、村の東半地域は高野龍神国定公園に含まれ、観光道路として高野山と龍神村を結ぶ高野龍神スカイラインも東部県境を通る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報