深谷(読み)フカヤ

デジタル大辞泉 「深谷」の意味・読み・例文・類語

ふかや【深谷】

埼玉県北部の市。もと中山道宿場町。深谷ネギを特産する。平成18年(2006)1月、岡部町川本町花園町と合併。人口14.5万(2010)。

しん‐こく【深谷】

底の深い谷。奥深い谷。

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精選版 日本国語大辞典 「深谷」の意味・読み・例文・類語

しん‐こく【深谷】

〘名〙 底の深い谷。また、奥深い谷。
本朝麗藻(1010か)下・夏日於左監門宗次将父亭聴講令〈大江以言〉「於戯不泰山者不天之高、不深谷者不地之厚」 〔詩経小雅・十月之交〕

ふかや【深谷】

埼玉県北部の地名南部は荒川扇状地の洪積台地、北部は利根川右岸の沖積平野。江戸時代、中山道熊谷と本庄の間の宿場町・市場町として発達。瓦・土管の製造のほか、近年工業団地が造成されている。ネギ・キュウリホウレンソウなどの栽培が盛ん。桜の名所唐沢堤がある。昭和三〇年(一九五五市制

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改訂新版 世界大百科事典 「深谷」の意味・わかりやすい解説

深谷[市] (ふかや)

埼玉県北西部の市。2006年1月旧深谷市と岡部(おかべ),川本(かわもと),花園(はなぞの)の3町が合体して成立した。人口14万4618(2010)。

深谷市西部の旧町。旧大里郡所属。人口1万8305(2005)。旧深谷市と本庄市にはさまれ,荒川北岸に広がる櫛引(挽)台地上を占める。平安後期から武蔵七党に属する岡部・今泉両氏らが館を構えて支配した地で,源平の一ノ谷の戦で名をはせた岡部六弥太も当地の出身であり,六弥太の建立した普済寺に墓がある。中心集落の岡部には江戸時代に岡部藩の陣屋がおかれた。昭和初期から養蚕とともに,ダイコンなど野菜の生産が行われ,農家の副業としてたくあん漬がつくられた。戦後,漬物生産はいっそう盛んになり,漬物業者も多い。養鶏も盛ん。フクジュソウの生産でも知られる。JR高崎線,国道17号線が通じる。

深谷市南部の旧町。旧大里郡所属。1977年町制。人口1万1992(2005)。熊谷市の西に接し,中央部を荒川が東流する。古くから養蚕が盛んだったが,1950年ころから台地上の開田が進み,65-72年には荒川中部農業利水事業が行われて,米の生産も増えた。養豚が行われ,ハム工場もある。町の西端には荒川から取水する六堰用水の頭首工があり(1939完成),かつての大里・北埼玉両郡の6用水をまかなっている。南岸の畠山には源頼朝につかえた畠山重忠の墓や館跡があり,本田には円墳56が集まる鹿島古墳群がある。秩父鉄道,国道140号線が通じる。

深谷市南西部の旧町。旧大里郡所属。1983年町制。人口1万2635(2005)。旧深谷市の南に接し,荒川北岸の台地上を占める。町名は中世の領主藤田氏の花園城にちなむ。1959年着手された荒川中部農業水利事業により台地上の開田が進んだ。畜産も行われ,関東ローム層におおわれた町の北部では花卉,苗木も生産される。関越自動車道花園インターチェンジが設けられ,国道140号線バイパスが新設されたのに伴い,工場や流通倉庫も進出している。秩父鉄道が通じる。
執筆者:

深谷市中東部の旧市。1955年市制。人口10万3529(2005)。南は荒川左岸の洪積扇状地(櫛引台地)からなり,北は利根川右岸の沖積扇状地である。JR高崎線と国道17号線が通じる。市街地は台地と低地の接点に開け,中世には深谷城があった。江戸時代に廃城となったが,中山道の宿場町,市場町としてにぎわい,5・10の六斎市も立った。土質が瓦製造に適しているため瓦,土管製造は江戸時代以来の伝統をもち,明治期には日本最初の洋式煉瓦工場も設立された。また養蚕・製糸業も江戸時代から行われ,特に明治・大正期に栄えた。県下最大の農業地帯であり,大正期から深谷ネギが知られるほか,花卉,野菜の生産,畜産も盛んである。1962年深谷工業団地が完成,カラーテレビ,セメント,アルミニウムなどの工場が相次いで進出し,県下有数の工業都市としても発展している。明治・大正期の実業家渋沢栄一の出身地で,生地の渋沢国際会館(1983年オープン。2000年頃,閉校)は全寮制の日本語学習の場で,付近には渋沢栄一記念館もある。
執筆者:

中山道,武蔵国の宿駅。地名の初見は1356年(正平11・延文1)の〈秘密灌頂私記〉奥書。榛沢郡深谷領に属した。中世は上杉氏の支配下にあったが,近世初頭は松平忠輝の知行であった。1622年(元和8)深谷藩領,35年(寛永12)以降天領となる。初め深谷町と称し,のち深谷宿と改称。新田検地は1680年(延宝8),1733年(享保18),1815年(文化12)。村高は正保期(1644-48)に135石余。天保期(1830-44)に241石となり,宿の規模は東西10町,南北3町,戸数524軒,人口1928。中山道往還沿いに集住し,本陣1(横町),脇本陣4(宮下町),旅籠(はたご)80軒があった。1846年(弘化3)本庄宿の大火の余波で330軒を類焼した。文人の往来が頻繁で俳人一茶もしばしば宿泊したという。
執筆者:

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普及版 字通 「深谷」の読み・字形・画数・意味

【深谷】しんこく

深い谷。〔詩、小雅、十月之交〕百川沸(ふつとう)し 山冢(しゆつほう)す 高岸は谷と爲り 深谷は陵と爲る

字通「深」の項目を見る

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事典・日本の観光資源 「深谷」の解説

深谷

(埼玉県深谷市)
中山道六十九次」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の深谷の言及

【市】より

…武蔵国新町村では1675年に,市に出る商人から業種に応じて32文ないし64文の雑用(ぞうよう)を徴収することをきめているが,会津の田島の市では貞享ころに盆前節季の〈見せ賃〉として内見世にいるものからは50文,外にいるものからは10文あるいは20文を取っていた。近世後期にも店賃の徴収は行われ,寛政(1789‐1801)の例では中山道深谷宿が7月,12月の2回,市日2日ずつ,市用に出るもの1人につき〈津料〉6文を徴収していた。幕末の例であるが武蔵国川越城下町では問屋場の久右衛門が問屋給分のほかに,毎年7月と12月の市日に,川越の市へ集まって店を出すものから〈つり銭〉と称する店賃を取り立てて問屋給分に加えていた。…

※「深谷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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