鶴崎町(読み)つるさきまち

日本歴史地名大系 「鶴崎町」の解説

鶴崎町
つるさきまち

[現在地名]大分市北鶴崎きたつるさき一―二丁目・中鶴崎なかつるさき一―二丁目・南鶴崎みなみつるさき一―三丁目・東鶴崎ひがしつるさき一―三丁目・鶴崎

大野川およびその支流である小中島おなかしま川の左岸乙津おとづ川の右岸に位置する。北は鶴崎村および小中島川を隔てて小中島村、西は寺司てらじ村、南は国宗くにむね村と乙津川を隔てて中島なかしま村、東は大野川を隔てて村。慶長六年(一六〇一)肥後熊本藩加藤清正領となり、寛永九年(一六三二)藩主が細川氏に替わってからも同藩飛地領として明治に至る。同一一年の同藩豊後国郷帳をはじめとして、郷帳類では高は鶴崎村に含まれるが、元禄豊後国絵図などに町名がみえる。加藤清正は豊後国内に領地を得ると、法心ほうしん寺建立・堀川開削・御茶屋建築などに着手した。当町の地割は元和四年(一六一八)加藤忠広が行っている(「山川金毘羅社南学院系図由来記」鶴崎町史)。細川氏も加藤氏の御茶屋を引継いで豊後飛地領支配の中心とし、当町は准町として御茶屋を中心とする城下町的な様相を呈していった。

〔鶴崎小路町〕

御茶屋をはじめ藩の役所などが置かれていた町筋と、藩士および藩士に準じる者がおもに居住していた町筋を総称して鶴崎小路つるさきこうじ町とよんだ。「高田風土記」によると、船頭せんどう町・加子かこ町・鉄砲てつぽう町・七軒しちけん町・しろ町・おく町などの町筋をさしており、これらの地域には船陸番人の拝領屋敷が三五〇余軒あった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報