佐土原城下(読み)さどわらじようか

日本歴史地名大系 「佐土原城下」の解説

佐土原城下
さどわらじようか

[現在地名]佐土原上田島かみたじま

江戸時代の鹿児島藩の支藩佐土原藩の城下町。現在の一ッ瀬川支流の三財さんざい川南岸、上田島の北東部に位置する。南西から南部にかけての洪積台地に囲まれ、北西から北東にかけては沖積低地が開けている。佐土原城は南西の洪積台地上に、武家地は東部麓の沖積低地にそれぞれ築造、配置されている。日向国の中央部に位置し、南北を結ぶ交通・軍事の要衝。中世の佐土原城は都於郡伊東氏の本居城の一つで、山上を居城とした。天正五年(一五七七)以降、島津家久、その子豊久が支配したが、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦により豊久が戦死すると、徳川氏代官の管理下に置かれた。同八年に幕府から封を受けて島津以久(佐土原藩祖)が佐土原城主となった。寛永二年(一六二五)二代藩主島津忠興は広大な城郭の管理に困難を感じ、山上の城を山下二の丸に移したが、移転は以久の遺命であったという。以後、明治二年(一八六九)に一〇代藩主島津忠寛が広瀬ひろせ城に移るまで佐土原城下は佐土原島津氏の藩庁所在地として存続した。

〔城下の景観と武士身分〕

城下の町並は武士の居住する屋敷町と町人の居住する町人町に区分されていた。屋敷町は城を中心に追手おうて口・鴫之しぎの口・野久尾のくび口・十文字じゆうもんじ口の城下四ヵ郷に分けられ、武士が集住していた(佐土原島津家文書)。城下の武士の身分は家格と役職が関連し、おおよそ次の六つの家格と一一の役職に分類できる(同文書、「佐土原藩島津家日記」など)。(一)寄合家格の家老(勝手奉行・地頭・大将などを兼務)、若年寄(家老と同じ役職と大目付などを兼務)、(二)騎馬格の番頭(寺社奉行・勘定奉行・軍賦奉行・教主・頭主などを兼務)、用人(側用人・表用人・留守役・者頭・講主代・舎長・目付などを兼務)、諸奉行(助教・厩別当・郡奉行・山奉行・鷹奉行・町奉行・船奉行・囃子奉行・蔵奉行・目付添役・普請奉行・同添役・学頭・代官など)、奏者番すなわち御取次番(記録方)、祐筆(生頭・進達・小納戸・側役)、(三)中小姓格の横目(近習・筆者・授読・表小姓・糾明方)、(四)歩行格の役人(普請方・宗門方・小組頭・触次・徒行目付・書役・郡方・井手方・山方・植木方・屋敷方)、(五)小頭格の付役(同心頭・触役)、(六)足軽格の付役(同心・小人・中間)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報