飯野
いいの
[現在地名]村上市飯野一―三丁目・飯野桜ヶ丘・南町一―二丁目・飯野西・山居町一―二丁目
長井町・細工町など旧町人街の南西裏にあり、南方現岩船郡神林村と隔てる山居山の丘陵までの広い地域をさすこともある。飯野の地名は文明(一四六九―八七)頃再興された龍皐院を飯野山と号したことによるとされる。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図に「大国但馬分飯野村 下」とみえ、本納七石一斗五升で畠、縄高四三石四斗、家七軒とある。瀬波町、「松山いゝの村」と村上町の間に広がる野地のほぼ中央に描かれる。
飯野
いいの
現在の好間町から平谷川瀬にかけてをさすと思われる。永仁二年(一二九四)一一月一一日の伊賀頼泰譲状案(飯野八幡宮文書、以下同文書)によれば「岩城郡之内、好島西庄之内、預所職、同領家分、飯野郷之内付、河中子・北目・新田・矢河子者」が子息光貞に譲られている。嘉暦二年(一三二七)七月一六日の伊賀光貞譲状では「よしまのしやうのうちい井のゝ村、ならいによしまの村」の預所職が子息三郎盛光に譲られている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
飯野
いいの
宮崎県南西部,川内川の最上流域加久藤盆地 (真幸〈まさき〉盆地) 東端を占める,えびの市の中心市街地の1つ。旧町名。 1940年町制。 66年近隣2町と合体してえびの町を形成,70年えびの市の一部となる。農業の中心地で良質米を産出。平安時代には藤原家の荘園真幸院の一郷。鎌倉時代から日下部氏,北原氏が支配。永禄7 (1564) 年島津義弘の飯野城入城以来,明治まで島津氏に属した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報