三浦氏(読み)みうらうじ

改訂新版 世界大百科事典 「三浦氏」の意味・わかりやすい解説

三浦氏 (みうらうじ)

(1)相模国三浦出身の中世武家。桓武平氏。良茂流とも良文流ともいう。代々清和源氏に属して繁栄し,平安末期義明(よしあき)のとき初めて〈三浦大介(みうらのおおすけ)〉を称した。以後三浦氏の嫡流は代々〈三浦大介〉を称した。大介の呼称は相模介に由来するとする説もあるが定かではない。平安後期より三浦氏は房総半島に対峙する三浦半島を本拠に一帯の海上を支配圏内におさえ,相模では最強ともいえる雄族であった。1180年(治承4)源頼朝の伊豆挙兵も,三浦氏の荷担があって初めて実現しえた。実際には,おりからの豪雨で河川が増水し三浦一族の到着が遅れたため,頼朝は石橋山の戦に敗れたが,その頼朝が海路を安房へのがれることができた背景には,海上権を握る三浦氏の尽力があった。石橋山ののち三浦一族も三浦衣笠(きぬがさ)城に敗れ,義明が戦死,子義澄(よしずみ)以下は安房へ渡って頼朝に合流し,幕府草創に参画した。その功として義澄は実質上相模の守護に補任(ぶにん)され,義澄の甥和田義盛は侍所別当に任ぜられた。義澄の子義村は1213年(建保1)の和田合戦には北条側に立ち,北条執権政治確立に力を尽くした。その子泰村も北条泰時の娘をめとって北条氏と姻戚関係を結び勢力を強めた。しかし幕初以来の有力御家人がほとんど滅亡した中で唯一権勢を保つ三浦氏は,専制化する北条時頼の策謀により47年(宝治1)一族のほとんどが滅亡させられた(宝治合戦)。その中で義明の子佐原義連(よしつら)の孫盛時は北条方に立ったため,泰村が討たれたのち家督を継いで三浦介となった。鎌倉末~建武期に盛時の子孫時継・高継父子が出て活躍したが,それぞれ戦死した。戦国時代三浦義同(よしあつ)・義意(よしおき)父子のとき相模に勢威をふるったが,1518年(永正15)小田原の北条早雲に攻められ滅亡した。なお本宗は滅んでも三浦氏は一族が各地に根をおろしており,前出和田氏,佐原氏のほか蘆名,岡崎,大多和,長井,中条(なかじよう)など,その支族は数多い。
執筆者:(2)近世大名。美作国勝山藩主。累代三河国碧海郡重原荘に住し,正次が徳川家光の小姓となり,のち六人衆の一人となる。1639年(寛永16)下野国壬生(みぶ)2万5000石の城主となる。その子安次のとき5000石を弟共次に分知。92年(元禄5)安次の子明敬(あきひろ)のとき日向国延岡に移り2万3000石を領し,さらに三河国刈屋に移った。その後,城地を西尾に移され,1764年(明和1)明次のとき美作国勝山に移り,新城を築く。以降10代を経て顕次のとき廃藩を迎える。維新後,子爵。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「三浦氏」の意味・わかりやすい解説

三浦氏
みうらうじ

桓武平氏(かんむへいし)流。鎌倉時代の相模国(さがみのくに)(神奈川県)の豪族出自については諸説あり、その有力な一つは、平為道(たいらのためみち)が前九年の役の戦功として1063年(康平6)相模国三浦郡を領して衣笠城(きぬがさじょう)(横須賀市)に居したのに始まるとするが、一説には平安中期に活躍した平良茂(よしもち)の孫三浦太郎公義(きみよし)からとする。義明(よしあき)の代に三浦大介(おおすけ)を名のり、これより三浦氏の嫡流は三浦介を称した。1180年(治承4)源頼朝(みなもとのよりとも)が伊豆に挙兵すると、義明と三浦一族は頼朝をたすけて功があり、のち義明の子義澄(よしずみ)は相模国守護、孫の和田義盛(わだよしもり)は侍所別当(さむらいどころべっとう)に任ぜられるなど、幕府の重臣として活躍。義澄の子義村(よしむら)は北条氏と協調して勢力を強め、泰村(やすむら)も同じく北条氏と姻戚(いんせき)関係を結んで強勢を誇ったが、1247年(宝治1)北条時頼(ときより)の策謀により一族はほとんど滅亡した(宝治合戦(ほうじかっせん))。このころ諸国に根を広げていた支族のなかから三浦介を継いだのは佐原盛時(さはらもりとき)で、ついで南北朝期には時継(ときつぐ)、高通(たかみち)ら子孫の活躍をみたが、義同(よしあつ)(道寸(どうすん))・義意(よしおき)父子の代の1516年(永正13)北条早雲(そううん)に滅ぼされた。ひそかに逃れた子孫のなかには、江戸幕府に仕えたり、明治には子爵や男爵を授けられた者がいる。

[三浦勝男]

『高橋恭一著『三浦党と鎌倉武士道』(1942・長谷川書房)』『永原慶二編『人物・日本の歴史 第四巻』(1966・読売新聞社)』『『三浦大介義明とその一族』(1980・三浦大介義明公八百年祭実行委員会)』『永井路子著『相模のもののふたち』(1978・有隣堂)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三浦氏」の意味・わかりやすい解説

三浦氏
みうらうじ

平安時代以来,相模国三浦郡を本拠とした豪族。桓武平氏の一支族と伝えられる。鎌倉幕府の御家人として栄えたが,一族和田義盛が和田合戦 (1213) で滅びたのち,泰村のとき宝治1 (47) 年執権北条時頼と戦って敗れ,壊滅的打撃を受けた (→宝治合戦 ) 。のちその支族佐原義連の子孫が三浦郡に勢力を得たが,永正 13 (1516) 年北条早雲に滅ぼされた。陸奥の戦国大名蘆名氏はこの一族である。江戸時代美作勝山藩主三浦氏は泰村の弟家村の子孫で,正次のとき桓武平氏から清和源氏に改め,寛永7 (1630) 年下総矢作1万石を与えられたことに始る。明治になり子爵。

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百科事典マイペディア 「三浦氏」の意味・わかりやすい解説

三浦氏【みうらうじ】

桓武平氏。良茂(よしもち)流とも良文流ともいう。相模(さがみ)三浦に住んで三浦氏を称し,義明のとき初めて三浦大介(みうらのおおすけ)を称し,以後嫡流は三浦大介を称した。義明・義澄(よしずみ)は源頼朝の挙兵に参じ,義澄は相模守護に補せられた。その子義村は河内(かわち)・紀伊(きい)の守護を兼ねたが,義村の子泰村に至って北条氏と争い,1247年一族ほとんどが滅んだ(宝治合戦)。のち支族によって再興されたが,北条早雲に滅ぼされた。
→関連項目名字の地

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「三浦氏」の解説

三浦氏
みうらし

中世相模国の豪族。桓武平氏良文流または良茂(よしもち)流。本拠は三浦郡。義明の代に相模大介(おおすけ)となり,以後,嫡流は三浦介を称した。源頼朝挙兵の際に頼朝をたすけた功により,鎌倉幕府創設後,義明の子義澄(よしずみ)が相模国守護に任じられ幕府宿老となった。その子義村は,北条氏に協調して勢力を強め,承久の乱後には北条氏と並ぶ権勢を誇った。1247年(宝治元)泰村の代に,北条時頼の策謀で滅亡。庶流の佐原氏のみ時頼方について三浦介をつぎ,かなりの勢力を保ったが,戦国期,義同(よしあつ)の代に北条早雲に滅ぼされた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「三浦氏」の解説

三浦氏
みうらし

中世,相模国の豪族。坂東八平氏の一つ
系図に異同があるが桓武平氏の一流。源義家に従い代々源氏に属す。義明のとき相模大介 (だいすけ) となり,これ以後三浦介と称した。頼朝挙兵に参加,戦功によって子義澄 (よしずみ) は相模国守護となる。鎌倉幕府創業以来の重臣として幕政に重きをなしたが,泰村のとき,執権北条時頼の挑発をうけて一族は滅亡(宝治合戦)。のち支族によって再興されたが,義同 (よしあつ) のとき北条早雲によって滅ぼされた。

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世界大百科事典(旧版)内の三浦氏の言及

【相模国(相摸国)】より

…この間に桓武平氏の流れをくむ武士や藤原秀郷の流れをくむ武士等が開発領主(武士団)として成長し,一方源氏一族は鎌倉を拠点として武家の棟梁の地位にのし上がっていった。相模における有力武士団として,三浦氏,和田氏,中村氏大庭氏梶原氏,鎌倉氏,渋谷氏波多野氏山内首藤氏糟屋氏,大友氏等があげられる。彼らは在地の有力者であり,国衙の在庁官人となって人民を支配した。…

【宝治合戦】より

…1247年(宝治1)6月,北条氏と三浦氏との間におこった合戦。三浦氏の乱ともいう。…

【三浦泰村】より

…37年(嘉禎3)若狭守に任ぜられ,38年(暦仁1)幕府の評定衆に補せられ,39年(延応1)父の死により家督をついで三浦介,相模守護となった。三浦氏は幕府草創以来の有力御家人の最後の生残りとして幕府内部に重きをなし,泰村も北条氏と姻戚関係を結んで勢力をふるっていたが,北条氏は自己に対抗しうる勢力の存在を警戒し,46年(寛元4)名越(北条)光時が前将軍頼経と謀って執権時頼を除こうとした事件に泰村の弟光村が荷担していたことを利用して三浦氏の排斥を図った。泰村は北条時頼とその外戚安達景盛らの挑発に乗り,47年(宝治1)6月鎌倉で戦って敗死し(宝治合戦),相模の雄族三浦氏の本流は滅亡した。…

【美作国】より

…美作西部には山名氏勢力の影響が強く,赤松氏の勢力は作東にしか及ばなかった。作東の三星城に拠った後藤氏は播磨の後藤氏の分かれらしく,作西では三浦氏が高田城に拠って頭角をあらわした。 美作は山間の小国ではあるが,中央と山陰を結ぶ連絡路にあたり,また山陽と山陰との通路でもあって人や物資の移動が活発で,大原市(おおはらのいち),林野市,戸川市などが商取引の拠点となって栄えていた。…

【名字の地】より

…平安時代,地方武士の勢力の発展に伴い,源平藤橘などの姓を有する各氏族が所領を開発,さらに氏族間で分有相伝してその地名を名字として称することが一般となった。たとえば三浦半島を領有する平姓三浦氏一族は惣領は三浦を称したが,支族はそれぞれ本拠地とした津久井,蘆名,和田,長井,佐原など半島内の所領の地名をとって津久井氏,蘆名氏,和田氏,長井氏,佐原氏などを称した。彼らにとっては,三浦のほか,津久井以下の領地がすなわち名字の地であり,先祖由緒の地としてその保有には異常な努力を払った。…

※「三浦氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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