国府(読み)こくふ

精選版 日本国語大辞典 「国府」の意味・読み・例文・類語

こく‐ふ【国府】

[1] 〘名〙 (「こくぶ」とも) 令制で、国ごとに置かれた地方行政府(国衙)。また、その所在地。現在にも府中、国府など地名として残る。府中。こう。〔続日本紀‐霊亀元年(715)一〇月丁丑〕

こう コフ【国府】

〘名〙 「こくふ(国府)」の変化した語。
催馬楽(7C後‐8C)道の口「道の口 武生(たけふ)の己不(コフ)に 我ありと」

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デジタル大辞泉 「国府」の意味・読み・例文・類語

こく‐ふ【国府】

《「こくぶ」とも》律令制で、国ごとに置かれた地方行政府。国衙こくが。また、その所在地。府中。
国民政府」の略。

こう〔コフ〕【府】

こくふ」の音変化。
「道の口、武生の―に我はありと親に申したべ」〈催馬楽・道の口〉

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改訂新版 世界大百科事典 「国府」の意味・わかりやすい解説

国府 (こくふ)

律令制下における国の官衙(かんが)の所在地。史料的には〈国府〉〈国衙〉はいずれも国の官衙を指すが,現在では国衙は官衙を,国府は国衙の周囲に広がる計画的な都市を示す用語として使うことが多い。7世紀後半における国-国司制の施行とともに諸国に設けられた。国衙は国の支配の拠点で,国司(守,介,掾,目)が中央政府から派遣されて駐在し,国の行政,司法,軍事,宗教などのあらゆる面を統轄した。また役夫や兵士が上番していた。

国数は8世紀初めに58国3島,824年(天長1)以降は66国2島で,全国にこれだけの数の国府があった。《和名抄》(10世紀成立),《伊呂波字類抄》(12世紀成立),《拾芥抄》(鎌倉中期成立)に,各国府の所在郡が記載されており,それらをもとに関係する地名-地割りによって所在地が推定されている。一部では発掘調査によって所在地が確認されている。

山麓の扇状地や河岸段丘上に立地する場合が多い。国内での位置は国内の支配や都との交通上の便宜を考慮して決められている。駅路に沿って設けるのを原則としたが,支線によって幹線駅路と結ばれることもあった。臨海国では,水運を利用するために海浜に位置し,内陸に設ける場合は河川水運によって国府津(国の港)と結ばれる位置におかれた。

国府域は8町四方,6町四方,5町四方の例が多い(1町=約109m)。府域は必ずしも周囲の条里制地割りと一致しない。状況の知られる周防国府の例では,府域が8町四方で,その中央北寄りに2町四方の国衙域を設ける。府域外郭には築地をめぐらし,内部は碁盤の目状に道路を通して町割りをしていたらしい。三田尻湾に面しているので府域南東部に〈船所(港)〉をおく。府域内には国衙関連施設がおかれたらしく,〈細工所〉〈大領田〉〈市田〉などの地名をのこす。

国衙域はふつう2町四方といわれるが,2町×3町(近江),2.5町×2町(伯耆)などの例もある。府域内での国衙の位置は一定せず,周防の例のほか近江,出雲では府域南部中央に設けられている。四周には堀,さらに築地をめぐらし門を開く。国衙の施設としては,政務や儀式を行う政庁,国司の居住する館舎,正税などを収蔵する正倉や兵庫などの倉庫,実務をとる大帳所・税帳所・国掌所・田文所などの諸官舎,国の学校である国学,国衙で用いる製品を作る工房などがある。878年(元慶2)ごろ紀伊では庁・学校・官舎など21棟以上の建物,881年ごろ遠江では官舎21棟,倉104棟以上があった。多賀城,城輪柵遺跡,下野,近江,出雲,伯耆,因幡国衙などの発掘調査によって,国衙内の状況が明らかになりつつある。政庁は国衙の中央を占め,周囲に築地をめぐらし,内部には正殿を中心にその前面の東西に東・西脇殿をコの字形に配し,後ろに後殿を置くのを基本的なパターンとする。近江国政庁の例では,周囲に東西73m,南北100mの規模で築地をめぐらし,南辺中央に門を開く。正殿は東西7間,南北5間,後殿は東西7間,南北4間,東・西脇殿は東西2間,南北16間で,いずれも瓦積基壇の礎石建物であり,各殿は廊でつながれる。政庁以外の国衙域については,伯耆では政庁の北方と西方に,出雲では北方に,いずれも溝をめぐらした方形のブロックを作り,内部に官舎の建物や井戸を計画的に配置している。国府の中には中世以降もその機能を変えながら生き続けたものもあり,各地に国府,府中などの地名をのこす。
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国府(岐阜) (こくふ)

国府(鳥取) (こくふ)

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日本歴史地名大系 「国府」の解説

国府
こくふ

令制下の筑後国国府の所在地が地名化した称。遺跡調査によれば一二世紀後半以後筑後国衙が復興されることはなかったが、国府の政治都市としての機能は高良こうら山下、現御井町付近に移り、中世都市筑後府中ふちゆうへと発展したとされている。建武三年(一三三六)五月「筑後国府」に九州探題一色範氏が在陣(年月日未詳「小代光信軍忠状」詫摩文書/南北朝遺文(九州編)二)、建武五年一月には南朝方の菊池武敏が在陣しており(「一色道猷軍勢催促状写」福田文書/南北朝遺文(九州編)七)、この国府は府中をさすと考えられ、軍事的拠点としての性格がうかがえる。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「国府」の意味・わかりやすい解説

国府
こくふ

令制の国衙 (こくが。地方行政官庁) の所在地。国府という言葉はすでに奈良時代からみられ,その所在地は中央の意思で決定され,必ずしもその国の中心にあったとはかぎらない。大化改新の際制定された駅路の制 (→駅伝制度 ) に従い,その国を統治するのに便利な交通の要地で,中央政府に最も近い地点が選ばれたものと思われる。たとえば,越前の国府は丹生郡府中 (現在の福井県武生市) にあって,南西に偏している。越中の国府は現在の富山県高岡市伏木町に,越後の国府は新潟県直江津市 (現在の上越市) にあって,いずれも西にかたよった位置にあり,このことは,中央から遠く離れた国々に多くみられる。北東端の陸奥の国府,南西の筑紫の大宰府などもその例である。国府の規模は,周防国府の遺構によって,だいたい想定することができる (→周防国衙跡 ) 。方8町の地域に,中央の政庁と同様に高い土塁 (羅城) をめぐらし,その中に官人の居宅と,中央より北に方2町の国衙とがあり,税所 (さいしょ) ,調所 (ずしょ) などの諸局があって,そこで国司が政務をとった。国司制度の崩壊と武士の興隆によって,鎌倉時代以後は,その付近に設けられた守護所にその機能が引継がれていった。現在,国府,古府,府中などといわれる地名は,国府の所在地であった。また国分 (こくぶ) という地名は,国府と国分寺との所在地を混同したものである。

国府
こくふ

鳥取県東部,鳥取市東部の旧町域。扇ノ山に発する袋川流域に位置する。 1957年宇倍野村と大成村が合体して町制。 2004年鳥取市に編入。古代因幡国の政治の中心地で,地名は国府があったことに由来する。山地が大半を占め,スギ,ヒノキの美林が多い。二十世紀梨,野菜を産する。伊福吉部徳足比売 (いふきべとこたりひめ) 墓跡と栃本廃寺跡,鳥取藩主池田家墓所,因幡国庁跡,彩色壁画の梶山古墳は国の史跡。因幡国の一の宮である宇倍神社,岡益の石堂,条里制遺構などの旧跡が多く,松尾にある学行院の木像薬師如来と吉祥天は国の重要文化財。一部は氷ノ山後山那岐山国定公園に属する。

国府
こう

愛知県南東部,豊川市中西部の旧町域。1894年町制施行。1943年豊川町,牛久保町,八幡村と合体して豊川市となった。地名は三河国国衙が置かれたことに由来し,隣接地の八幡に国指定史跡の三河国分寺跡三河国分尼寺跡,および八幡宮(本殿が国指定重要文化財)がある。東海道に沿う市場町として発展し,周辺農村の商業地となった。名古屋鉄道,国道1号線が通って交通条件がよく,都市化が進んだ。

国府
こくふ

岐阜県北部,高山市中北部の旧町域。宮川中流域に広がる古川盆地の南部を占める。 1964年町制。 2005年高山市に編入。地名は飛騨の国府が置かれたことに由来。国宝の安国寺経蔵をはじめ文化財,旧跡に富む。北西部は宇津江四十八滝県立自然公園に属する。

国府
こくふ

徳島県東部,1967年に徳島市に編入された吉野川南岸の地区。吉野川とその支流鮎喰川 (あくいがわ) の間の沖積地を占める。府中 (こう) には上代の国府跡があり,現在は近郊農業地帯となっている。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「国府」の解説

国府
こくふ

律令制下の諸国の役所,またその所在地。国衙(こくが)・国庁の語との異同には諸説あるが,国府を条坊をもつ小型の都城的都市とみる従来の見解は,発掘調査などにより疑問視されている。役所としての国府は,多くの場合コの字形の建物配置をとる政庁を中心に,さまざまな官衙・倉庫・工房,国司の居館である館などから構成され,国内の比較的都に近い場所の立地が多く,官道にそって建設され,国府湊や国府津を付属させた。このような国府は,現在までの発掘成果では8世紀初頭頃に成立し,中心の政庁は大部分が10世紀には廃絶。また古辞書類などから,平安時代における国府の移転が想定される国もかなりある。

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百科事典マイペディア 「国府」の意味・わかりやすい解説

国府【こくふ】

島根県浜田市の一地区で那賀郡の旧町。かつて石見(いわみ)国府が置かれた地で,山陰本線下府(しもこう)駅付近に国分寺跡(史跡)がある。海岸砂丘ではブドウを栽培。畳ヶ浦(天然記念物)は1872年の石見地震で隆起した海食台地。

国府【こくふ】

国衙・国府

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旺文社日本史事典 三訂版 「国府」の解説

国府
こくふ

律令制下における国衙 (こくが) の所在地
その国の政治・経済・交通(特に都との連絡)の要点に置かれ,国府・府中・府内などの地名や,条里制の遺制,国分寺などの遺跡を残している。周防 (すおう) の国府(防府市)の遺構は有名。

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防府市歴史用語集 「国府」の解説

国府

 律令[りつりょう]時代に各国に1つづつ置かれた、その国を治める役所です。中央から送られてきた国司[こくし]が政務をとります。しかし、荘園[しょうえん]が各地に広まるとすたれていきます。

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世界大百科事典(旧版)内の国府の言及

【市】より

…このほか《風土記》にも商人の集まる場所が見えるから,各地に小規模な市が数多く存在したのであろう。これらのうち〈安倍市〉と〈深津市〉が国府に近いことが注目される。この2市以外にも,周防国府や和泉国府域内に〈市田〉〈市の辺〉の小字名が存し,また国府推定地周辺に市にちなむ地名が残っている場合は多い。…

【国衙法】より

…平安時代中期以降,地方政府である国衙(国府)が管内で施行した法。律令体制の支配秩序が崩壊しはじめると,地方の国衙では支配を維持していくために律令法を修正しながら,各地方の慣習をも取り入れて地方の実情に即応できる,新しい法を作りだしていった。…

【都市】より

…旧中国都市のシンボルであった城壁は取り壊され,道路の拡張,住宅の再建,交通機関の整備など数多くの改革が目ざましく進められてはいるが,そうした表面的な変化と都市生活者の内面的意識の間には,まだかなりの溝や矛盾点が存在していることも事実であろう。都城【梅原 郁】
〔日本の都市史〕

【古代】
 古代に都市と称する可能性をもっているのは,まず藤原京平城京難波京,初期の平安京などの都城であり,次いで各地の国府である。このうち藤原京以後の都城は,中国の制度にならった整然とした条坊制をもっており,とくに平城京は人口も10万~20万ほどと推定されていて,なかでは最も都市と呼ぶのにふさわしいといえる。…

※「国府」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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