国府
こくふ
令制の国衙 (こくが。地方行政官庁) の所在地。国府という言葉はすでに奈良時代からみられ,その所在地は中央の意思で決定され,必ずしもその国の中心にあったとはかぎらない。大化改新の際制定された駅路の制 (→駅伝制度 ) に従い,その国を統治するのに便利な交通の要地で,中央政府に最も近い地点が選ばれたものと思われる。たとえば,越前の国府は丹生郡府中 (現在の福井県武生市) にあって,南西に偏している。越中の国府は現在の富山県高岡市伏木町に,越後の国府は新潟県直江津市 (現在の上越市) にあって,いずれも西にかたよった位置にあり,このことは,中央から遠く離れた国々に多くみられる。北東端の陸奥の国府,南西の筑紫の大宰府などもその例である。国府の規模は,周防国府の遺構によって,だいたい想定することができる (→周防国衙跡 ) 。方8町の地域に,中央の政庁と同様に高い土塁 (羅城) をめぐらし,その中に官人の居宅と,中央より北に方2町の国衙とがあり,税所 (さいしょ) ,調所 (ずしょ) などの諸局があって,そこで国司が政務をとった。国司制度の崩壊と武士の興隆によって,鎌倉時代以後は,その付近に設けられた守護所にその機能が引継がれていった。現在,国府,古府,府中などといわれる地名は,国府の所在地であった。また国分 (こくぶ) という地名は,国府と国分寺との所在地を混同したものである。
国府
こう
愛知県南東部,豊川市中西部の旧町域。1894年町制施行。1943年豊川町,牛久保町,八幡村と合体して豊川市となった。地名は三河国の国衙が置かれたことに由来し,隣接地の八幡に国指定史跡の三河国分寺跡と三河国分尼寺跡,および八幡宮(本殿が国指定重要文化財)がある。東海道に沿う市場町として発展し,周辺農村の商業地となった。名古屋鉄道,国道1号線が通って交通条件がよく,都市化が進んだ。
国府
こくふ
徳島県東部,1967年に徳島市に編入された吉野川南岸の地区。吉野川とその支流鮎喰川 (あくいがわ) の間の沖積地を占める。府中 (こう) には上代の国府跡があり,現在は近郊農業地帯となっている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
こく‐ふ【国府】
[1] 〘名〙 (「こくぶ」とも) 令制で、国ごとに置かれた地方行政府(国衙)。また、その所在地。現在にも府中、国府など地名として残る。府中。こう。〔続日本紀‐霊亀元年(715)一〇月丁丑〕
こう コフ【国府】
〘名〙 「こくふ(国府)」の変化した語。
※催馬楽(7C後‐8C)道の口「道の口 武生(たけふ)の己不(コフ)に 我ありと」
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
国府【こくふ】
島根県浜田市の一地区で那賀郡の旧町。かつて石見(いわみ)国府が置かれた地で,山陰本線下府(しもこう)駅付近に国分寺跡(史跡)がある。海岸砂丘ではブドウを栽培。畳ヶ浦(天然記念物)は1872年の石見地震で隆起した海食台地。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
国府
こくふ
律令制下における国衙 (こくが) の所在地
その国の政治・経済・交通(特に都との連絡)の要点に置かれ,国府・府中・府内などの地名や,条里制の遺制,国分寺などの遺跡を残している。周防 (すおう) の国府(防府市)の遺構は有名。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
国府
律令[りつりょう]時代に各国に1つづつ置かれた、その国を治める役所です。中央から送られてきた国司[こくし]が政務をとります。しかし、荘園[しょうえん]が各地に広まるとすたれていきます。
出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報
デジタル大辞泉
「国府」の意味・読み・例文・類語
こく‐ふ【国府】
《「こくぶ」とも》律令制で、国ごとに置かれた地方行政府。国衙。また、その所在地。府中。
「国民政府」の略。
こう〔コフ〕【▽国▽府】
「こくふ」の音変化。
「道の口、武生の―に我はありと親に申したべ」〈催馬楽・道の口〉
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
こくふ【国府】
律令制下における国の官衙(かんが)の所在地。史料的には〈国府〉〈国衙〉はいずれも国の官衙を指すが,現在では国衙は官衙を,国府は国衙の周囲に広がる計画的な都市を示す用語として使うことが多い。7世紀後半における国‐国司制の施行とともに諸国に設けられた。国衙は国の支配の拠点で,国司(守,介,掾,目)が中央政府から派遣されて駐在し,国の行政,司法,軍事,宗教などのあらゆる面を統轄した。また役夫や兵士が上番していた。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
国府
こくふ
令制下の筑後国国府の所在地が地名化した称。遺跡調査によれば一二世紀後半以後筑後国衙が復興されることはなかったが、国府の政治都市としての機能は高良山下、現御井町付近に移り、中世都市筑後府中へと発展したとされている。建武三年(一三三六)五月「筑後国府」に九州探題一色範氏が在陣(年月日未詳「小代光信軍忠状」詫摩文書/南北朝遺文(九州編)二)、建武五年一月には南朝方の菊池武敏が在陣しており(「一色道猷軍勢催促状写」福田文書/南北朝遺文(九州編)七)、この国府は府中をさすと考えられ、軍事的拠点としての性格がうかがえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
世界大百科事典内の国府の言及
【市】より
…このほか《風土記》にも商人の集まる場所が見えるから,各地に小規模な市が数多く存在したのであろう。これらのうち〈安倍市〉と〈深津市〉が国府に近いことが注目される。この2市以外にも,周防国府や和泉国府域内に〈市田〉〈市の辺〉の小字名が存し,また国府推定地周辺に市にちなむ地名が残っている場合は多い。…
【国衙法】より
…平安時代中期以降,地方政府である国衙(国府)が管内で施行した法。律令体制の支配秩序が崩壊しはじめると,地方の国衙では支配を維持していくために律令法を修正しながら,各地方の慣習をも取り入れて地方の実情に即応できる,新しい法を作りだしていった。…
【都市】より
…旧中国都市のシンボルであった城壁は取り壊され,道路の拡張,住宅の再建,交通機関の整備など数多くの改革が目ざましく進められてはいるが,そうした表面的な変化と都市生活者の内面的意識の間には,まだかなりの溝や矛盾点が存在していることも事実であろう。都城【梅原 郁】
〔日本の都市史〕
【古代】
古代に都市と称する可能性をもっているのは,まず藤原京,平城京,難波京,初期の平安京などの都城であり,次いで各地の国府である。このうち藤原京以後の都城は,中国の制度にならった整然とした条坊制をもっており,とくに平城京は人口も10万~20万ほどと推定されていて,なかでは最も都市と呼ぶのにふさわしいといえる。…
※「国府」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報