米町(読み)こめまち

日本歴史地名大系 「米町」の解説

米町
こめまち

[現在地名]秋田市おお町一丁目・同二丁目の各一部

かめの丁の西、北は大工だいく町。米町は東部に北から南へ上米かみこめ町一丁目・二丁目(現大町一丁目の一部)、西部に同じく下米しもこめ町一丁目・二丁目(現大町二丁目の一部)の四丁からなる。明和四年(一七六七)の「六丁米家督由緒書」(米沢町記録)土崎湊穀つちざきみなとこく丁より移ったとして次のように記す。

<資料は省略されています>

慶長一八年(一六一三)二月九日に湊穀丁から現在地に移り、米町と称し、四丁ともに米占売りの特権をもつ米家督町となった。

米町
こめまち

[現在地名]小倉北区京町きようまち一丁目・同三―四丁目・魚町うおまち一丁目・米町一―二丁目

京町の南筋にあたり、むらさき川右岸から外堀(砂津川)へ東西に延びる町並。細川氏の時代に伊勢の山田政清が小倉に来て京町に居住、延宝四年(一六七六)当町三丁目に移転、伊崎屋を号して魚問屋を始めた。同じ頃伊予屋(のち岩田屋)が当町に開店。元和(一六一五―二四)頃戸倉重之が小倉に来住、当町三丁目で菓子商を営み、宇治屋(のち氏屋)と称した(以上「小倉商家由緒記」など)。京町の三丁目・四丁目の間より米町の東の角まで一丁の町を綿わた町という(倉府俗話伝)

米町
こめまち

[現在地名]釧路市米町よねまち一―四丁目・弥生やよい一―二丁目・弁天ヶ浜べんてんがはま

明治八年(一八七五)から同三三年まで存続した町。釧路市街の南部に位置する。「観国録」に「クスリ会所元ヨリオニヨツブニ打越ス途中ノ地名ハイカリト云」とあるが(安政三年九月二日条)、イカリは当地とされる。明治三年釧路漁場持の佐野孫右衛門により奥羽地方や函館近傍から移民が入り、同四年街路を開いた。移民らは孫右衛門の屋号をとって米町と通称したという(状況報文)。同年の移住戸口はのちの米町・真砂まさご町内で五二戸・一三五人という(同一七年「釧路郡移住人民調」御子柴文書)

米町
こめまち

[現在地名]青森市しん町二丁目・ほん町二丁目・同五丁目の各一部

青森町の中心、善知鳥うとう神社前から東方へ延びる長さ七町五二間・幅八間の町。西端の御倉おくら之通から正覚寺しようがくじ通までを上米町、福士ふくし之通までを中米町、その東、米町こめまち橋までを下米町とよんだ。米町橋は博労ばくろう町との境にあり、長さ五間・幅二間(新撰陸奥国誌)。もと五戸ごのへ町と称したともするが(青森市沿革史)、確証はない。

寛永元年(一六二四)に青森の町づくりが行われたときおお町・はま町とともに最初につくられた青森派立一千九五軒の一つである(津軽歴代記類)

米町
こめまち

鎌倉幕府が鎌倉の中で町屋を許可した七ヵ所の商業地域のなかに「米町」(「吾妻鏡」建長三年一二月三日条)、および「穀町」(同書文永二年三月五日条)がある。両者はともに同一の地域で米穀類の取引の行われた所であろう。

明応年間(一四九二―一五〇一)頃に描かれた善法寺寺地図(津久井町光明寺蔵)には、大町大路おおまちおおじ若宮わかみや大路と直交しようとする手前の両側に屋並を描き、「米町」と注している。「吾妻鏡」は建保元年(一二一三)五月の和田合戦の記述に際して「若宮大路東頬米町前」を海岸に向かったとしているから(仁治二年一二月二七日条)、両者の記述の間には矛盾はない。

米町
こんまち

[現在地名]七尾市米町

阿良あら町北側の東西に走る通りの両側町で、東は豆腐とうふ町、西は町、北はたけ(所口地図)。元和二年(一六一六)の所之口町絵図に「米町どをり」とみえる。延享二年(一七四五)の浦役銀一九七匁余・伝馬銀一一八匁余・出分地子二五匁余・人足銀一一四匁余(「御代覚書」税務大学校所蔵文書)。弘化三年(一八四六)に人足銀は一〇八匁余となる(「夫役上納高調理帳」山崎文書)。安政三年(一八五六)の家数六七(七尾市史)

米町
こめまち

[現在地名]中津市中津 米町

古博多ふるはかた町の北に続き、姫路ひめじ町の東側の職人町。享保四年(一七一九)の軒数五一・竈数六四、安永六年(一七七七)は空地一・空家八、文化七年(一八一〇)の竈数五二(惣町大帳)。「惣町大帳」延享二年(一七四五)九月条に、中屋伝右衛門は殿様が江戸より帰城するとき、日用頭の宿を勤めてきたので、残る一五軒の日用の者の宿も同人が世話することを命ぜられている。同年一〇月には畳屋兵左衛門の弟助右衛門が畳屋棟梁役に任ぜられている。明和元年(一七六四)一二月古博多町の鉄屋四郎右衛門は、当町の抱屋敷において蝋を製造していたところ、表の窓から猛煙が出たため、火事と間違って町中大騒ぎとなった。

米町
こめまち

[現在地名]鰺ヶ沢町米町

北はほん町二丁目に接する。もと本町に属していたが、「津軽家御定書」によると寛文一一年(一六七一)米穀商売の町と指定され、米町となった。

<資料は省略されています>

貞享四年(一六八七)検地帳に米町と記され、家数二三とある。元禄一六年(一七〇三)の鰺ヶ沢町の絵図(鰺ヶ沢町史)に二六軒の家がみえるという。明治初年の「新撰陸奥国誌」に家数二九とある。

米町
こめまち

[現在地名]六郷町六郷 米町

六郷より角館かくだてへ通ずる角館街道筋にあり、西のおお町とかみ町にまたがって発展した。

宝永七年(一七一〇)六郷本館村より願書(六郷町郷土志重要資料)に「御伝馬四日半、御賄六日、市壱斎、見せ賃八〆文程」とある。寛保二年(一七四二)には伝馬役を「下十七日之内十四日より十九日迄米町ニ相勤」ることとなった(「御伝馬除屋鋪駅場方品々亀鑑」六郷町郷土史料)

米町
こめまち

[現在地名]福井市順化じゆんか二丁目

北は伝馬てんま町・大黒だいこく町、南はほん町に隣接する。内藤家・山口家などの豪商を生んだ米問屋街で、明治五年(一八七二)の調査では米屋一〇軒・搗米商二軒・室屋一軒を数えた(福井市史)。慶長年間北庄四ツ割図では家数五二。正徳三年(一七一三)頃の御城下惣町間数帳には「米町 百拾七間半、往還ヨリ片原町迄、但東西二町分、但道幅三間半」と記す。

米町
よねまち

[現在地名]釧路市米町一―四丁目・弥生やよい一―二丁目・弁天ヶ浜べんてんがはま

昭和七年(一九三二)に設置された町名。釧路川河口部の左岸にある。もとはこめ町、知人しりと町・弁天ヶ浜の各一部。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報