青森湊町(読み)あおもりみなとまち

日本歴史地名大系 「青森湊町」の解説

青森湊町
あおもりみなとまち

開港以前の青森は善知鳥うとう村と称し、四辺に葦萱が多く生茂り、善知鳥沼(安潟)のほとりに漁家数十軒が点在する荒涼たる一漁村であった。寛永元年(一六二四)二代藩主津軽信枚は、森山弥七郎を開港奉行に命じ、青森村と改称して町づくり、港づくりを行った。当時外ヶ浜そとがはまには大浜おおはま(現油川)の港があって古くから栄え、南部氏の家臣奥瀬氏が油川あぶらかわ城に拠っていた。天正一三年(一五八五)大浦(津軽)為信は油川城を陥落させ、外ヶ浜をも支配した。その後津軽氏の支配が定着し、遠浅で大船を入れるに適さない大浜に代えて善知鳥村に外港をつくることになったのである。

まずほん(大町)はま町・こめ町の三町がつくられ、続いて寛文四年(一六六四)しお町・博労ばくろう町・多葉粉たばこ(莨町)が町割された。青森からの江戸廻米は寛永二年に始まった。また村井新助・佐藤理右衛門の二人を町頭に任命して移民の募集にあたるとともに、外ヶ浜での商取引を青森に限定した。工藤家記(青森県史)に「青森派立之事」として一〇年間の「作取并諸役」免除が記され、また「外浜中商人船売買」は青森のみで行うこととされ、商人は弘前と同様優遇され、月に六度の市を立てることとしている。寛永六年には次の定が出されている(「工藤家記」青森県史)

<資料は省略されています>

このような青森町優遇策によって、寛文一一年には堤川端つつみかわばた町・しん町・てら町・鍛冶かち町・大工だいく町も成立し、青森町の形態が整い、同年の家数六二三。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報