六郷高野村(読み)ろくごうこうやむら

日本歴史地名大系 「六郷高野村」の解説

六郷高野村
ろくごうこうやむら

[現在地名]六郷町六郷

横手盆地中央部に位置し羽州街道が村内を通る。雄物川の川湊大保だいぼ角間川かくまがわ(現大曲おおまがり市)を控え交通・経済の要所であった。北は鑓田やりた村、東は野中のなか村に接し、六郷高野・六郷川内池ろくごうかわないいけ六郷本館ろくごうもとだては集落が接近し、村境は明確でなく、この三村を六郷三ヵ村とよぶこともあった。信仰の山真昼まひる岳の山すそにあるため、応安(一三六八―七五)、永和(一三七五―七九)頃の板碑が多くある。

中世末期にこの地を支配した六郷氏以前には神尾町氏がいたと伝え、神尾町氏はその後六郷氏の配下となった。天文年間(一五三二―五五)の様子を描いたと推定される神尾町絵図(六郷の歴史)に当時の小城下町の様子が記され、永禄年間(一五五八―七〇)以降の様子を描いたと推定される六郷草創絵図(六郷の歴史)にも初期の六郷氏時代のありさまが記される。

六郷家譜によれば、永禄から天正年間(一五七三―九二)に神尾町氏の城下町南部に六郷氏が進出したという。六郷草創絵図によれば六郷館は平城で、商人町らしい名称もみられる。

文禄三年(一五九四)の中郡領地上り高(六郷の歴史)

<資料は省略されています>

とあり、神尾町の名も記されている。

慶長七年(一六〇二)佐竹氏の秋田移封に伴い、旧領主六郷氏は常陸へ移された。佐竹義宣は六郷の経済的重要性と六郷旧臣の離反防止のため、父義重を「六郷高屋の兵庫正乗か故城」においた(柞山峯之嵐)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報