竹田村(読み)たけだむら

日本歴史地名大系 「竹田村」の解説

竹田村
たけだむら

[現在地名]伏見区竹田〈青池あおいけ町・内畑うちはた町・おけ町・狩賀かるが町・久保くぼ町・小屋こやうち町・浄菩提院じようぼだいいん町・醍醐田だいごでん町・田中殿たなかでん町・田中宮たなかみや町・だん川原がわら町・中川原なかがわら町・中島なかじま町・七瀬川ななせがわ町・踞川ねばりがわ町・ふけかわ町・松林まつはやし町・真幡木まはたぎ町・三ッ杭みつくい町・向代むかいだい町・向代町川むかいだいちようかわ町・流池りゆうち町・藁屋わらや町〉

北は上鳥羽かみとば(現南区)、東は深草ふかくさ村、南は景勝かげかつ村・芹川せりかわ村・下鳥羽しもとば村、西は上鳥羽村・中島村に接する。村の東端を竹田街道が走り、東に高瀬たかせ川、北西にかも川が流れる。

「京都府地誌」は当村について「往古真幡寸庄ニ属ス、又竹田庄ト称シ一村独立ス、保元中真幡寸庄ヲ竹田ニ合併シ竹田村ト称ス」と記す。

当村域には一一世紀末、白河天皇が退位後の後院として営んだ鳥羽殿とばどの(鳥羽離宮)の御堂の内、成菩提じようぼだい院・勝光明しようこうみよう院・安楽寿あんらくじゆ院が所在していた。

また当村は街道筋に位置し、村域内を鴨川が貫流していることもあって、古来、水陸交通の結節点、交通の要衝であった。京への出入口として戦場となることも多く、「太平記」(三月十二日合戦事)に「未戦前ニ、楯ヲ捨テ旗ヲ引テ、作道ヲ北ヘ東寺ヲ指テ引モ有、竹田川原ヲ上リニ、法性寺大路ヘ落モアリ」、同書(足利殿着御篠村則国人馳参事)に「サテ官軍ハ五月七日京中ニ寄テ、合戦可有ト被定ケレバ、篠村・八幡・山崎ノ先陣ノ勢、宵ヨリ陣ヲ取寄テ、西ハ梅津・桂里、南ハ竹田・伏見ニ篝ヲ焼」などと記される。

竹田村
たけだむら

[現在地名]松山町竹田

松山城下の北西にあり、西は最上川を境に提興屋ひさげこうや(現東田川郡余目町)。最上街道が通る。当初田尻たじり村と称したが、陸奥国遠田とおだ郡田尻村(現宮城県遠田郡田尻町)の出身者が開拓したことによるといわれる(「羽柴雄輔筆記」飽海郡誌)。「大泉庄三権現縁記」永正三年(一五〇六)の記事に「田尻ハ余目城主中棚真木嶋御分地也」とあり、地内の田尻館は余目あまるめ(現余目町)城主安保太郎の弟次郎の館で、次郎は上茗荷沢かみみようがさわ・下茗荷沢・引地ひきち中棚なかたな牧野島まきのしまを領有した(「遠田肥前覚書」飽海郡誌)。寛文四年(一六六四)中山なかやま村を松山と改称したことにあわせて、田尻村も竹田村と改称した。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録によれば高一五五石余、寛永元年庄内高辻帳では高五四四石余。万治二年(一六五九)から寛延四年(一七五一)までに切添新田一町六反余を開発した(「検地帳」竹田区有文書)。天保一五年(一八四四)には免五ツ、家数六九(「高辻并留」松山町資料館蔵)。田尻組大肝煎庄司与助は当村に住し、寛永一五年(一六三八)庄内藩から知行一〇〇石を与えられたが、これは当村が松山藩領となるまで続いた。

竹田村
たけだむら

[現在地名]温泉町竹田

細田ほそだ村の北西にあり、集落は北東流する岸田きしだ川の左岸に発達。同川に並行して山陰道が走り、同道と岸田川に挟まれた平地に耕地が展開する。本村のほかに本村北方の背後にそびえる山を越えた田君たきみ川の最上流域に枝郷後山うしろやまの集落があり、同集落の北、田君川の下流は栃谷とちだに(現浜坂町)。中世の温泉庄竹田村の遺称地。しかし中世の竹田村は当地だけではなく、岸田川本流の中流域や同川支流熊谷くまだに川の流域にわたる広い地域(温泉庄の半分、東北部)を占めていたと思われる。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」に「たけた下岡」「中岡」「上岡」とみえ、この下岡しもおか・中岡・上岡は本村集落と考えられる。また同日記にみえる「ちやう志やか原」(長者ヶ原か)も居住者の名字などから地内と思われる。下岡には「もりわき与三兵衛殿」、中岡には「はた谷山称殿」、上岡には中村豊後殿・かうさき善左衛門殿、「ちやう志やか原」には竹内殿・岡村殿ほかが住していた。

慶長六年(一六〇一)因幡国若桜藩領、元和三年(一六一七)幕府領、寛永四年(一六二七)旗本宮城領となる。

竹田村
たけだむら

[現在地名]和田山町竹田

市場いちば村の南、円山まるやま川の沿岸にあり、集落は東に朝来山、西に古城こじよう山がそびえた同川沿いの狭小の地に立地する。中世には竹田庄などとみえ、古城山に室町期から近世初頭にかけて太田垣氏が拠った竹田城が営まれ、城下町も形成されたが、慶長六年(一六〇一)廃城となった。一七世紀前期・中期とされる国絵図(石川家蔵)では「竹田町」とみえ、和田山町と結ぶ道が記される。寛永一六年(一六三九)の知高帳では竹田町として高二四〇石、竹田出作分として高一四二石余とする。正保(一六四四―四八)頃の国絵図でも竹田町として高三八九石余。幕府領として推移したと考えられる。元禄郷帳でも竹田町とある。宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙では高二四〇石余、竹田出作分として高一四四石余と記される。天保郷帳では竹田町として高二七三石余、竹田出作分として高一四四石余。慶長初年には戸数一千二〇〇、駅馬二〇〇疋もいたというが、同一五年の火災で焦土となる。宝暦一二年にも一三〇戸が焼失、安永元年(一七七二)には不作で八〇戸・三一五人が減少、天明八年(一七八八)には不作で一〇〇戸・三〇〇人の減少、天保七年(一八三六)の飢饉では八〇戸・三八〇人が減少した(以上「竹田誌」)

竹田村
たけだむら

[現在地名]日田市中央ちゆうおう一―二丁目・本町ほんまち本庄町ほんじようまち元町もとまち南元町みなみもとまち若宮町わかみやまち竹田新町たけだしんまち川原町かわらまち東町ひがしまちくま一―二丁目・中本町なかほんまち亀山町きざんまち田島たしま一丁目・竹田

堀田ほりた村の南、三隈みくま川右岸に位置する。文禄三年(一五九四)西部に隈町が建設された。北東は田島村、西は庄手しようで村。中世は宇佐宮領竹田別符などとみえる。慶長七年(一六〇二)の玖珠郡・日田郡御蔵入目録(佐伯藩政史料)に村名がみえ、高一千六四六石余で、物成七八八石余のうち米四四七石余・豆二四二石余・大唐三〇石余・粟三〇石余・蕎二二石余・稗一五石余となっている。

竹田村
たけたむら

[現在地名]佐久市大字根岸ねぎし 竹田

蓼科たてしな山の東北麓末端、中沢なかざわ川の渓口村落。東は下平しもだいら村、北は下県しもがた村、西は糠尾ぬかお村と接する。

文政年中(一八一八―三〇)に村内平見堂ひらみどうの地で発掘された銅鐘には延慶二年(一三〇九)の銘があり、建治二年(一二七六)伴野ともの城主伴野信時が跡部あとべの金鋳場で八鐘を鋳たと伝えられるものと同類と考えられる。佐久に侵入した武田氏は、村域の虚空蔵こくぞう山頂に狼煙台を設けた。

竹田村
たけだむら

[現在地名]岡山市竹田

南流する旭川の左岸にあり、対岸は御野郡北方きたがた村、南は東川原ひがしがわら村・西川原村。旭川の河原上に位置する。「備前軍記」によれば、永禄年中(一五五八―七〇)龍の口たつのくち城主所元常は宇喜多勢の進攻に対して「竹田河原の北に備て」迎え撃った。寛文九年(一六六九)から翌一〇年にかけて、百間ひやつけん川の荒手が当村と北東の中島なかしま村の間の堤を切って設けられている。寛永備前国絵図に村名がみえ、高一五七石余。「備陽記」によると田畑一二町九反余、家数五〇・人数三一二。文化年間の「岡山藩領手鑑」では直高二九〇石余、蔵入。田高一四一石余・畑高五六石余、家数五三・人数三三五、肥船一がある。

竹田村
たけだむら

[現在地名]真野町竹田

小佐渡山地の経塚きようづか(六三六メートル)から流れ出る竹田川の下流域にある。阿仏房あぶつぼう村の東。集落は川の両岸標高三〇メートルほどの竹田台地上にあり、水田は台地北側の低湿地帯にあり、条里的遺構がみられた。竹田川べりにあるなしぼとけの地は殿様塚とのさまづかともよばれ、竹田沖の条里の基点といわれる。現在はここに榎がある。律令時代に佐渡国府の置かれた地域で、「和名抄」の雑太さわた郡竹田郷・雑太郷の一部に比定される。

竹田村
たけだむら

[現在地名]国富町竹田

森永もりなが村の東に位置する。南端を東流する本庄ほんじよう川に沿って肥後街道が通る。天正五年(一五七七)一二月、福永氏の伊東氏方からの離脱によって島津氏が日向に侵入、豊後へ退去する伊東氏を追う島津氏は戸崎とざき(現野尻町)から紙屋かみや(現同上)に向かい竹田町を放火し、さらに本庄、都於郡とのこおり(現西都市)佐土原さどわら(現佐土原町)へと陣を進めている(「島津義弘譜」旧記雑録)。同一〇年一一月四日、肥後参陣のため宮崎を発した上井覚兼はこの日当地の町屋に一宿している。

竹田村
たけだむら

[現在地名]御所市大字竹田

御所町北方にあり、東は東辻ひがしつじ村、西はまつもと村と境する。慶長郷帳では御所藩(桑山元晴)領、村高は一〇七・七石。寛永六年(一六二九)御所廃藩により幕府領となり、同一六年以降郡山藩(郭住、本多勝行)領となった。延宝八年(一六八〇)新庄藩(永井直円)領に編入、明治に至る。天明四年(一七八四)四月一九日、同二五日葛城川の大洪水があり、古図によると「荒所東辻村十二丁内六丁川ニ成る竹田村六丁 薑村領十三丁 御所領六丁」とあり、被害は大きかった。

竹田村
たけだむら

[現在地名]行橋市竹田・泉中央いずみちゆうおう五―七丁目・北泉きたいずみ五丁目・東泉ひがしいずみ一―四丁目

羽根木はねぎ村の南に位置し、いま川・はらい川によって形成された沖積平野に立地する。北は平島ひらしま村。元和八年人畜改帳に村名がみえ、給人二人分の高一四二石、家数二一・人数五〇(うち庄屋一・百姓六・名子等六)、牛一〇・馬四。寛永九年(一六三二)の高一四二石余(「仲津郡寛永六年七年八年三ヶ年之御免帳」永青文庫)。宝永三年(一七〇六)の水帳では平島村からの渡高二二一石余が付加され、高三五四石余(嘉永五年仲津郡本田畑御勘定帳)

竹田村
たけだむら

[現在地名]田原本町大字西竹田にしたけだ

飛鳥川東岸、十六面じゆうろくせん村西に所在。延久二年(一〇七〇)の興福寺雑役免帳の城下しきのしも郡に竹田北庄竹田東庄竹田南庄の名がみえ、竹田はかなり広域の地名だったとも思われる。慶長郷帳の村高は七九九・八九石で、交代寄合の平野氏領。

寛永一七年(一六四〇)十六面じゆうろくせん村に高を分けたため元禄郷帳では七一四・三八九石となっている。江戸時代後期には、竹田村からの出郷で大網おあみ村から入百姓していた竹田村南方みなみほうが分れた。明治初年の旧高旧領取調帳では西竹田村三五六・一二一石、竹田南方村三五八・二六八石とあり、二村の村高合計は元禄郷帳の高に合致する。西竹田村と改めたのは、同郡内の竹田村(現橿原市東竹田町)と区別するためである。

竹田村
たけだむら

[現在地名]豊中町笠田竹田かさだたけだ

竿さお川流域にあり、下高野しもだかの村の東に位置する。寛永国絵図に「武田」とみえ、熊岡くまおか郷に所属。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では四九九石余、同一八年の小物成は綿一二匁(山崎領小物成帳)。「西讃府志」によれば村の広さは東西七町・南北一二町。高五三七石余、反別は五二町一反余、うち畑六町四反余・屋敷一町七反余。家数一二七・人数五〇五、牛五八・馬五、橋一。池は島之しまの池のみ。溜池が少ないのは竿川の水利のためと考えられる。忌部いんべ祠・観音堂などがある。

竹田村
たけだむら

[現在地名]鏡野町竹田

東は円宗寺えんじゆうじ村、西は真加部まかべ村、南は寺元てらもと村、北は瀬戸せと村・土居どい村に接する平地村落。正保郷帳に高三七四石余、うち田方三三〇石余・畑方四三石余とある。「作陽誌」では家数六四・人数三二二。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高一七三石余、開高一二一石余。文政元年(一八一八)の津山領郷村帳では東組三四九石余・西組三二〇石余。天保五年(一八三四)の五人組人別帳(藤田文書)では家数七六・人数三二七、うち男一八三・女一四四。

竹田村
たけだむら

[現在地名]山形村竹田

江戸時代松本藩領に属し、のち高遠たかとお藩領の今井いまい組に入り、その後、幕府領に編入された。南は大池おおいけ村、西は小坂こさか村に接する。天正検地の際は、四五一石六斗八升五合、元禄一五年(一七〇二)には八四〇石五斗五合と激増している。

浄土宗無性山見性寺は、寺伝では延暦二二年(八〇三)坂上田村麻呂が当地下向のみぎり祈願創立したという。天正七年(一五七九)源知が再建、京都知恩院の末寺となったという。上竹田の穴観音は山の中腹の古墳石室と思われる中に祀られ、その山の麓の畑地中に二基の後期の古墳跡がある。

竹田村
たけだむら

[現在地名]板柳町小幡こはた

岩木川中流右岸に位置し、東は小幡村、北は大性だいしよう(現鶴田町)に接する。

貞享四年(一六八七)の検地帳で掛落林くらのはやし村の支村竹田村をみると、田地がなく、畑方七反三畝、屋敷四反二畝四歩、畑屋敷合せて一町一反五畝四歩、村高七・七五一石、百姓一二人とある。同年漆地子新田を竹田村に改め、広須組へ入り、宝暦七年(一七五七)赤田組へ入った(板柳町誌)

竹田村
たけだむら

[現在地名]作東町竹田

土居どい村の北西、山家やまが川左岸に立地。出雲往来に沿い、北西は上福原かみふくはら村と接する。正保郷帳に村名がみえ、田一八三石・畑七五石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高六三石余・開高二九石余、村位は下。津山藩森氏断絶後の領主の変遷は土居村と同様。寛政九年(一七九七)石代銀納相場の引上げに反対する美作幕府領二二八ヵ村が江戸越訴に及ぶ過程を綴った石代一件郷用記録(備前備中美作百姓一揆史料)に当村東分・西分の庄屋助三郎の名がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報