竹山聖(読み)たけやまきよし

日本大百科全書(ニッポニカ) 「竹山聖」の意味・わかりやすい解説

竹山聖
たけやまきよし
(1954― )

建築家。大阪府豊中市に生まれる。1977年(昭和52)京都大学工学部建築学科卒業。同年東京大学大学院入学、原広司研究室にて建築を学び、アフリカの集落調査に参加する。このころから、建築家の隈研吾(くまけんご)らとともに「グルッポ・スペッキオ」というコラム・グループをつくり、建築雑誌『SD』等に寄稿し、執筆活動を開始。1979年、東京大学大学院修士課程修了。同年博士課程に進み、友人たちと設計組織アモルフを結成、本格的な設計活動を開始する。1984年、東京大学大学院博士課程修了。

 活動初期にあたる1980年代の作品としては、古河(こが)の歯科医院+住宅(1983。『SD』レビュー賞受賞)、MARUYO代官坂(1984、神奈川県)などがある。1986年に湘南台文化センターのプロポーザル・コンペに二等入選し、注目を浴びる。また、軽井沢別荘(1987)にて吉岡賞受賞。このころから規模の大きな建築を手がけるようになり、OXY乃木坂(1987、東京都。アンドレア・パッラディオ賞受賞)、D-HOTEL(1989、大阪府)、TERRAZZA(テラッツァ)(1991、東京都)、周東町パストラルホール(1994、山口県。現、周東パストラルホール)といった作品を発表する。これらの作品はいずれも、コンクリート打ち放しによって幾何学的な構成の空間を明快に表現したものである。竹山はこれらの建築による試みを、「都市に楔(くさび)を打ち込む」行為と見立て、都市に対峙(たいじ)しうるだけの強度をもった、壁としての建築をつくりだしている。また、そうした過程で「不連続都市」「超領域」「想像力解放装置としての建築」といった、竹山独自のタームが次々と生み出されるようになる。

 1990年代には、ふたたび住宅の設計に集中的に取り組み、「天と地の対位法」という方法論によってそれまでの作品とは異なる境地を開拓する。ここでは建築が、「天に属する部分」と「地に属する部分」という明快な対比によって二つに分節され、それが鉄筋コンクリート造鉄骨造、あるいは個室とリビング、といった複数の次元の差異に対応させられている。そうした方法論による代表作としては、竹山の自邸であるBlue-Screen House(1993)がある。

 1992年(平成4)より京都大学助教授、2015年(平成27)教授。京都に行ってからの竹山は、学生たちと古代都市遺跡を調査し、都市発生を探求しながら現代都市のあり方を分析・構想するようになる。1995年に阪神・淡路大震災が起きた際には、大学の研究室においていち早く神戸新首都計画を発表し(1995)、神戸の復興ビジョンを提示した。1996年、ミラノ・トリエンナーレ日本チームコミッショナー。1998年より、スペインバレンシア大学、1999年よりパリのラ・ビレット建築大学で学生の指導にあたっている。また、竹山は文学や音楽、ファッション関係など、他分野の識者たちとも幅広く交流をもっており、その延長でファッション・デザイナー山本寛斎(1944―2020)の会社の本社ビル(1998、東京都)などを手がけている。

 近年は、都市化社会における単身者世帯の居住様態に関心をもち、ありうべき個人の住まいに関するビジョンを、さまざまな形で探求している。

[南 泰裕]

『「自由への壁」(『SD』1977年12月号「国内建築ノート」所収・鹿島出版会)』『『竹山聖 Kiyoshi Sey Takeyama Architect』(1990・六耀社)』『竹山聖著「無為という虚構」(『新建築』1991年4月号所収・新建築社)』『竹山聖著『独身者の住まい』(2002・広済堂出版)』『竹山聖著「空間の欲望/物質とイマジネーション」(小石新八監修『スペースデザイン論』所収・2003・武蔵野美術大学出版局)』『南泰裕著「竹山聖論――測り得ない距離の形象化に挑む軽やかにして強固な意志」(『建築思潮』1997年05号所収・学芸出版社)』

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