稲葉村(読み)いなばむら

日本歴史地名大系 「稲葉村」の解説

稲葉村
いなばむら

[現在地名]岸和田市稲葉町

なか村の南、牛滝うしたき川谷の中央部にあたる山直やまだい谷の河岸台地と丘陵部一帯に立地する。村内を牛滝川が北流し、牛滝街道も村の中央を南北に縦走する。永禄年間(一五五八―七〇)三好長慶の弟十河一存は岸和田城に拠って畠山高政および根来衆らと対戦したが、その頃山直郷稲葉で合戦があり、三好方の武士福田九郎左衛門尉が一存から感状を与えられた(欠年七月二八日十河一存感状写「拾遺泉州志」所引)。福田九郎左衛門は尾生おぶに住む地侍といわれるが、「山直郷内稲葉合戦」では、福田の被官又八郎が敵方の林孫六郎の首を討取ったという。当地の菅原すがわら神社背後の丘陵に空堀の遺構を残す稲葉城跡があり、この合戦に関係する遺跡と考えられる。

村高は文禄三年(一五九四)七一九石余(延宝七年「検地帳」林家文書ほか)。正保二年(一六四五)は七一八石余(「和泉国村高帳」鬼洞文庫蔵)

稲葉村
いなばむら

[現在地名]古川市三日町みつかまち一―二丁目・荒川小金町あらかわこがねちよう西館にしだて一―三丁目・南町みなみまち一―四丁目・南新町みなみしんまち栄町さかえちよう小稲葉町こいなばちよう北稲葉きたいなば一―二丁目・中島町なかじまちようかまえ・稲葉

古川の中心部にあたり、寛永一七年(一六四〇)の総検地以前はこの地も古川の名で総称されていた。北は緒絶おだえ橋を挟んで大柿おおがき村、南は米袋よねぶくろ村、東は境野宮さかいのみや村、西は西荒井にしあらい村と接する。古来、交通の要地、商業の中心地として栄えた。「安永風土記」には、村名の由来について「京都祇園社御鎮座ノ地稲葉と申処ノ由ニ付当村モ祇園社御勧請後稲葉村ト相唱候」とあり、祇園社(現八坂神社)の勧請は天慶三年(九四〇)という。

稲葉村
いなばむら

[現在地名]八街市小谷流こやる

用草もちくさ村・根古谷ねごや村の南に位置し、南は小間子おまご牧。中世末期に塩古しおこ村から分村したため、塩古(塩子)を冠称し塩古(塩子)稲葉村ともよぶ。天正一九年(一五九一)の検地のとき、小谷流村・大谷流おおやる村両村と分村したともいう(八街町史)。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分に村名がみえ、高四〇石余、佐倉藩領。以後幕末まで同藩領。寛保二年(一七四二)に新田一石余が高入れされ四一石余、以後変わらず。享保八年(一七二三)村明細帳(小谷流区有文書)によると上田一反余・中田九反余・下田二町七反余、下畑一町一反余、屋敷三畝余。

稲葉村
いなばむら

[現在地名]彦根市上稲葉町かみいなばちよう下稲葉町しもいなばちよう

本庄ほんじよう村の東に位置し、南は愛知川で限られる。東部に本村の上稲葉村、西部に枝郷の下稲葉村がある(木間攫)。奈良東大寺領因幡いなば庄の遺称地。慶長三年(一五九八)七月の浅野長吉知行目録(浅野家文書)に村名がみえ、四九七石余が豊臣秀吉から浅野氏に与えられている。慶長高辻帳では高五三〇石、うち三石八斗余は小物成。彦根藩成立時から文久元年(一八六一)まで同藩領、同二年幕府領となる。元禄八年大洞弁天寄進帳によると人数四三一、うち寺社方一。

稲葉村
いなばむら

[現在地名]稲沢市稲沢町・西にし

蛇行した三宅みやけ川の南に位置し、村の中央を東西に美濃路が通り、その宿場である(天保村絵図)。東は小沢こざわ村・大塚おおつか村に接する。応永八年(一四〇一)岩間守清と鈴置立蔵坊との中分和与が成立した田畑和与状(妙興寺文書)に「伊奈波畠七反」とみえ、同二三年の岩間守清寄進状(同文書)によると妙興寺みようこうじ領となった。

稲葉村
いなばむら

[現在地名]びわ町稲葉

弓削ゆげ村の北東にあり、南の錦織にしこおり村境は高時たかとき川に近い。北国街道を馬渡もうたり(現湖北町)で分岐し早崎はやざき村に通じる竹生島ちくぶしま参詣本道が集落を通る。中世は稲葉今村いなばいまむら庄に属した。史料上は稲場とも。暦仁元年(一二三八)一二月三日の四条天皇宣旨案(摂津勝尾寺文書)、建治二年(一二七六)一〇月二一日の太政官符案(同文書)に「稲葉今村庄」とみえ、元応元年(一三一九)一〇月日の日吉社家注進状案(生源寺文書)にも同様に名が載ることから、この頃は日吉社領であったと考えられる。

稲葉村
いなばむら

[現在地名]東大阪市稲葉一―四丁目・稲葉

若江郡に属し、大和川付替えまでは村の南で玉串たまくし川が東の吉田よした川と西の菱江ひしえ川に分れており、両川に包みこまれたような地形であった。貞和五年(一三四九)頃、この地に中納言中御門宣明の家領稲庭いなば庄があり、そこで鬼のような形をした子牛が生まれたという(「師守記」同年三月一五日条)。同庄の名は「昭和現存天台書籍綜合目録下」に収める応永三三年(一四二六)八月二七日書写の大涅槃経奥書に「河内国稲葉庄安養院社頭常住御経也」とみえ、また文明一〇年(一四七八)八月日の仁和寺知行文書目録(仁和寺文書)で不知行地とされている「印庭庄」も、同庄のことではないかと思われる。

稲葉村
いなばむら

[現在地名]尾張旭市稲葉町・北山きたやま町・西の野にしのの町・下井しもい町・長坂ながさか町・上の山うえのやま町・南新みなみしん町・南栄みなみさかえ町・晴丘はるおか町・みどり

西は印場いんば村、北は新居あらい村と接する。北に瀬戸街道が東西に走る。中央部を東西に矢田やだ川が流れ、南は本地ほんじはらとよぶ原野であった。寛文一一年(一六七一)の家数五一、男一六一・女一五六(寛文覚書)

稲葉村
いなばむら

[現在地名]久住町白丹しらに

白丹村の西、稲葉川中流左岸に位置。郷帳類では白丹村に含まれたと思われ、元禄見稲簿には白丹村内稲葉村とみえる。「肥後国誌」でも白丹村のうち稲葉村とみえ、高一八八石余。地内に中迫なかさこ芋生迫いもうさこ西畑にしばた梅木うめき椿山つばきやま荻迫おぎさこ用作ゆうじやくの七ヵ小村がある。「久住志」にはこのほか下鶴しもつるたかの二ヵ小村がみえる。

稲葉村
いなばむら

[現在地名]芝山町大里おおさと

高谷たかや川上流右岸に位置し、南の下流側は飯櫃いびつ村。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一五二石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では因幡と記され、白升組に属し、旗本小栗領。小栗氏は元和二年(一六一六)頃からの知行で(寛政重修諸家譜)、幕末まで同家領(旧高旧領取調帳)。幕末期の外国奉行・勘定奉行軍艦奉行であった小栗上野介忠順の「小栗上野介日記」にも当村の記事が散見される。寛政五年(一七九三)の家数一三、幕府領と小栗領(上総国村高帳)。慶応四年(一八六八)の村高書上帳(おとづれ文庫蔵)によると全村小栗領で、高一五二石余・家数一〇。

稲葉村
いなんばむら

[現在地名]日高町稲葉

万劫まんごう村の北西、神鍋かんなべ台地の西奥、三川みかわ(八八七・八メートル)の南麓に位置する。江戸時代の領主の変遷は藤井ふじい村に同じ。寛永一六年(一六三九)の知高帳によると高九一石余。豊岡藩旧京極領三万五千石村々高付(岡本家文書)では高九〇石余。文化一〇年(一八一三)の名寄帳によると毛付高八一石余、高持数三〇(日高町史)三柱みはしら神社がある。享保一五年(一七三〇)から同一七年にかけて、当村と隣村の水口みのくち村との間ではげしい山論があり、江戸出訴も三回に及んでいる。

稲葉村
いなばむら

[現在地名]長岡市稲葉町・城岡じようおか三丁目

長岡町の北東郊外平坦地にある。西は川久保かわくぼ新田・城岡新田村、北西は下条げじよう村、北東は福島ふくじま村、東は亀貝かめがい村に通じる道がある。天正村名考(温古之栞)に「稲場二十八軒」と伝える。慶長二年(一五九七)の古志郡稲葉村検地帳(安禅寺文書)では蔵王権現領本途七石七斗余・見出二石七斗余があり、その地字は野付・もちた・ひそへ・志さし免・ふしやてん・かほりたなどである。

稲葉村
いなばむら

[現在地名]佐屋町稲葉

東は甘村井かむらい村、西は須賀すか村に接する大村。「徇行記」によれば、概高一千五九九石余は一円蔵入地で、田は八四町一反七畝余、畑は一二町二反三畝余。「寛文覚書」に戸数九五、人数五四三とある。「徇行記」は「村立大体ヨシ、高ニ准シテ佃力足ラサレトモ、田畝ハ村中ニテ悉ク耕耘シテ他村ヨリ承佃スル者ナシ」と記す。

稲葉村
いなばむら

[現在地名]天理市稲葉町

荒蒔あらまき村南方、岩室いわむろ村西部に所在。「国民郷士記」に稲葉平助の名がみえ、その居城跡は嘉幡かばた町の菅原すがわら神社付近といわれ、堀が残っていた。慶長郷帳の村高四六八・九七石、山口勘兵衛組の所領、寛永年間(一六二四―四四)から柳生藩(柳生宗矩)領。

稲葉村
いなばむら

[現在地名]十日町市稲葉

山谷やまや村の北。集落は信州道沿いにある。北は千手せんじゆ(現中魚沼郡川西町)に続く。伝承によると、永正年間(一五〇四―二一)に上野国館林たてばやし(現群馬県館林市)の児玉某なる者が開拓・草創したという(中魚沼郡誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報