柳生藩(読み)やぎゅうはん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「柳生藩」の意味・わかりやすい解説

柳生藩
やぎゅうはん

大和(やまと)国の北東山間部の添上(そうのかみ)郡柳生村(奈良市)を中心に存した譜代(ふだい)藩。奈良市の中心部から柳生街道を経て、東方13キロメートルにあたる、柳生荘(しょう)の郷士柳生宗厳(むねよし)(石舟斎(せきしゅうさい))は新陰(しんかげ)流剣法の達人で、その子宗矩(むねのり)(但馬守(たじまのかみ))とともに秘剣を完成し、関ヶ原の戦いにはひそかに東軍に属し2000石を受けた。その後、宗矩は大目付に起用されて1万2500石の大名となり、将軍徳川秀忠(ひでただ)・家光(いえみつ)の剣術師範となる。宗矩の子十兵衛(じゅうべえ)三厳(みつよし)も武芸に優れ、地元の正木坂(まさきざか)道場にて多くの門弟を養成したという。陣屋は1642年(寛永19)宗矩が創建、宗冬(むねふゆ)が増築したが、1747年(延享4)焼失後は仮建築にとどまった。1646年(正保3)宗矩が没し、長子三厳が遺領を継いだが、三厳は三弟宗冬に4000石、末弟義仙(ぎせん)(芳徳寺第1世)に200石を分与したため8300石の旗本となった。しかし、のち三厳の遺領を宗冬が相続し(旧領は収公)、さらに1668年(寛文8)1700石を加増されてふたたび大名(1万石)に復した。以後、将軍家の師範役を勤めつつ、宗春、宗在(むねあり)、俊方(としかた)、俊平、俊峯、俊則、俊豊、俊章(としあきら)、俊能(としよし)、俊順(としむね)、俊益と続き、廃藩置県に至った。廃藩後、藩領は柳生県、奈良県、堺(さかい)県、大阪府を経て、1887年(明治20)再置の奈良県に編入

 同地の臨済宗芳徳寺は、1638年(寛永15)宗矩が沢庵(たくあん)を開基として創建したもので、柳生家関係諸品や文書を有し、代々墓地も存する。

[平井良朋]

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藩名・旧国名がわかる事典 「柳生藩」の解説

やぎゅうはん【柳生藩】

江戸時代大和(やまと)国添上(えかみ)郡柳生(現、奈良県奈良市柳生地区)に藩庁をおいた譜代(ふだい)藩。藩校は修文館。藩祖の柳生宗矩(むねのり)は父の宗厳(むねよし)(石舟斎(せきしゅうさい))とともに新陰流(しんかげりゅう)の秘剣を完成、徳川家康(とくがわいえやす)に招かれて、将軍の徳川秀忠(ひでただ)徳川家光(いえみつ)の兵法指南役となった。1632年(寛永(かんえい)9)に総目付(大目付(おおめつけ))となり、その後1万2500石の大名となった。46年(正保(しょうほう)3)に宗矩が死没、長男の三厳(みつよし)(十兵衛)が遺領を継いだが、3男宗冬(むねふゆ)に4000石、4男義仙(ぎせん)に200石を分与したため、8300石の旗本となった。50年(慶安(けいあん)3)に三厳が急死、宗冬に三厳の旧領8300石が与えられ(宗冬の旧領4000石は収公)、さらに68年(寛文(かんぶん)8)に1700石加増されて1万石に列したことにより、大名に復帰した。以後、将軍家の師範役として明治維新まで13代続いたが、藩主江戸に定府(じょうふ)したため、城下の発展はあまり見られなかった。1871年(明治4)の廃藩置県で柳生県となり、その後、奈良県、堺(さかい)県、大阪府を経て、87年に再置の奈良県に編入された。

出典 講談社藩名・旧国名がわかる事典について 情報

デジタル大辞泉プラス 「柳生藩」の解説

柳生藩

大和国、柳生(現:奈良県奈良市)を本拠地とした藩。初代藩主、柳生宗矩(むねのり)は徳川将軍家の兵法指南役で、柳生新陰流発展に尽力。以後の代々の藩主も将軍家武道師範役をつとめた。

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