種痘所(読み)シュトウジョ

デジタル大辞泉 「種痘所」の意味・読み・例文・類語

しゅとう‐じょ【種痘所】

種痘しゅとう普及目的として、安政5年(1858)神田お玉ヶ池に作られた医療施設。伊東玄朴げんぼく蘭方医幕府許可を得て開設したもの。万延元年(1860)より幕府の直轄。→医学所

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「種痘所」の意味・わかりやすい解説

種痘所 (しゅとうしょ)

俗にお玉ヶ池種痘所といわれ,天然痘を予防するために,ジェンナー式牛痘接種法の実施・普及をはかる目的で,1858年(安政5)に江戸在住の蘭方医たちが幕府の許可を得て神田お玉ヶ池に開設した私営の医療施設。当時は種痘館と称し,種痘事業ばかりでなく西洋医学講習も行われ,江戸における西洋医学の拠点となった。のち60年(万延1)10月幕府の所管となり種痘所と改称,さらに翌年幕府の西洋医学校となった。その後身が現在の東京大学医学部
西洋医学所
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「種痘所」の意味・わかりやすい解説

種痘所
しゅとうしょ

江戸後期に牛痘(ぎゅうとう)普及を図るとしてつくられた集会所。1858年(安政5)、伊東玄朴(げんぼく)、大槻俊斎(おおつきしゅんさい)らが呼びかけ、江戸在住の蘭方医(らんぽうい)82名が醵金(きょきん)して神田お玉が池の川路聖謨(としあきら)下屋敷設立された。幕府の蘭方医学禁止令の下でも、ようやくその効果を認められつつあった牛痘接種の普及に事寄せて、蘭方医の大同団結、蘭方医学の教育・研究機関たらしめようとするものであった。この通称お玉が池種痘所は、翌年下谷(したや)和泉(いずみ)橋に移転して、幕府直轄の種痘所となり、61年(文久1)西洋医学所、63年医学所と改称された。68年(慶応4)明治政府に接収されて、大病院、ついで翌年、医学校兼病院となった。今日の東京大学医学部は源をお玉が池種痘所としている。なお記録によれば、戊辰(ぼしん)戦争の動乱中にも医学所での牛痘接種は続けられていた。

[神谷昭典]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「種痘所」の意味・わかりやすい解説

種痘所【しゅとうしょ】

伊東玄朴ら82名の江戸の蘭方医の拠金により,1858年神田お玉が池の川路聖謨(としあきら)の拝領地に設立されたジェンナー式牛痘接種所で,蘭方医の集会所でもあった。同年類焼し下谷和泉橋通りに再建,1860年幕府はこれを公認,さらに直属機関とし大槻俊斎を初代頭取とし,翌年西洋医学所と改称した。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「種痘所」の解説

種痘所
しゅとうじょ

江戸神田お玉ケ池に開設された牛痘接種所。1858年(安政5)江戸の蘭学者83人が官許をえて設立。はじめお玉ケ池の川路聖謨(としあきら)拝領地にあったが,火災のため御徒町の伊東玄朴(げんぼく)宅隣接地に移り種痘を続行した。60年(万延元)幕府直轄。初代頭取は大槻俊斎。61年(文久元)西洋医学所,63年医学所となった。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「種痘所」の解説

種痘所
しゅとうじょ

1858年に江戸神田に開設された種痘所
'60年幕府直轄となり,'63年医学所となる。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の種痘所の言及

【医学】より

…牛痘苗を入手するためにも種々の工作がなされたが,49年(嘉永2)になってジャワから到着した痘苗を,長崎に住んでいた佐賀藩の藩医楢林宗建が息子に接種して成功し,それを各地の蘭方医たちがリレーで接種し,全国へ広げていった。江戸における拠点は神田お玉ヶ池の種痘所で,江戸在住の蘭方医82人の拠金によって58年に開設された。これは,業務としては種痘をすることであるが,蘭方医たちが集まって研修する場としても使われた。…

【伊東玄朴】より

…32年(天保3)佐賀藩主鍋島侯から一代士分に取り立てられている。58年(安政5)江戸神田お玉ヶ池の種痘館(のちの種痘所西洋医学所)の設立に尽力,同年戸塚静海とともに幕府奥医師に登用され,幕府医官に西洋医学採用の道を開いた。法印に叙せられ長春院の号を賜った。…

【西洋医学所】より

…安政5年(1858)1月幕府の許可を得て伊東玄朴,戸塚静海,大槻俊斎,林洞海ら江戸在住の蘭方医83人が神田お玉ヶ池に設立した私営の種痘館がその前身で,同年5月に開所したが12月の神田大火で類焼,翌年再建された。万延1年(60)10月幕府の直轄となり種痘所と改称,翌年西洋医学所と改称されて大槻俊斎が初代頭取となり,教授,解剖,種痘の3科が発足した。第2代頭取の緒方洪庵のときに医学所と改称,第3代頭取松本良順に至って学制がようやく整ったが,戊辰戦争で閉鎖された。…

※「種痘所」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」