伊東玄朴(読み)いとうげんぼく

精選版 日本国語大辞典 「伊東玄朴」の意味・読み・例文・類語

いとう‐げんぼく【伊東玄朴】

幕末の医者。名は淵。号沖斎・長翁。肥前の人。シーボルトオランダ医学学び、江戸で開業。牛痘苗の接種を行ない、種痘所(のちの医学所)を設立。のち幕府の奥医師。著に「医療正始」二四巻。寛政一二~明治四年(一八〇〇‐七一

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デジタル大辞泉 「伊東玄朴」の意味・読み・例文・類語

いとう‐げんぼく【伊東玄朴】

[1801~1871]江戸末期の蘭方医肥前の人。シーボルトに師事し、江戸に出て開業。牛痘苗による接種に成功し、同志とともに種痘所を開設。のち幕府の奥医師

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊東玄朴」の意味・わかりやすい解説

伊東玄朴
いとうげんぼく
(1800―1871)

江戸末期の蘭方医(らんぽうい)。肥前(ひぜん)国仁比山(にいやま)村(佐賀県神埼(かんざき)市)生まれ。名は淵(えん)、字(あざな)は伯寿、冲斎・長翁と号した。農業執行重助(しぎょうしげすけ)が父であるが、母方の血縁で佐賀藩士伊東祐章の養嗣子(ようしし)となる。16歳で漢方医を学び、1822年(文政5)藩医島本龍嘯(りゅうしょう)に蘭方を学び、さらに長崎でオランダ語を通詞(つうじ)猪俣伝治衛門(いのまたでんじえもん)に、蘭方医学をシーボルトに学んだ。1826年江戸本所に開業、1828年シーボルト事件に一時連座した。1829年玄朴と改名、医書翻訳や蘭書教授を行った。1835年(天保6)に訳したビショッフI. R. Bischoff(1784―1850)の内科医書『医療正始(せいし)』24巻が評判をよび、1838年にはモストG. F. Most(1794―1832)の『牛痘種法篇』を訳出した。1858年(安政5)大槻俊斎(おおつきしゅんさい)らとともに神田お玉が池に種痘所を開設、のちの西洋医学所の基礎を築いた。同年戸塚静海とともに奥医師に任命され、1861年法印となり、江戸蘭学界の第一人者となった。この年、脱疽(だっそ)患者の肢(し)切断治療で日本で初めてクロロホルム麻酔を使用した。医学所取締として教育にも関与し、俊斎没後は緒方洪庵(おがたこうあん)頭取実現に尽力した。明治4年1月2日没。墓所は東京・谷中(やなか)の天竜院である。

[末中哲夫]

『伊東栄著『伊東玄朴伝』(1916・玄文社/複製・1978・八潮書店)』

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朝日日本歴史人物事典 「伊東玄朴」の解説

伊東玄朴

没年:明治4.1.2(1871.2.20)
生年:寛政12.12.28(1801.2.11)
幕末の蘭方医。肥前国(佐賀県)神崎郡仁比山村生まれ。執行重助の長男。幼名は勘助,名は淵,字は伯寿,号は冲斎,長翁,長春庵。佐賀藩士伊東祐章の養子となる。文化12(1815)年漢方医古川佐庵の門に入り,文政1(1818)年医を開業する。5年蘭方医島本竜嘯に入門し,次いで6年長崎の大通詞猪股伝次右衛門にオランダ語を学び,シーボルトにも師事して蘭医学を学んだ。9年江戸に出て,11年本所番場町に医業を開いた。天保2(1831)年佐賀藩主鍋島家の一代士として召しかかえられ,14年には侍医に抜擢された。嘉永2(1849)年長崎にもたらされた牛痘痂を用いて,いち早く牛痘接種法を手がけた。安政5(1858)年神田お玉ケ池に種痘所を設立するに当たっては,江戸在住83名の蘭方医の中心的存在として開設に尽力した。牛痘接種法が天然痘の予防にもっとも有効であることを理解して,これを江戸の市民に実施するために幕閣に対してその効果を説き,時の勘定奉行川路聖謨の拝領地を借り受け,川路も積極的にこの挙に参加した。 また同じ年将軍徳川家定の重病に際し,戸塚静海らと共に蘭方医としてはじめて,将軍の侍医となって治療に参加した。文久1(1861)年法印に叙せられ,長春院の号を賜った。蘭学者としても多くの子弟を養い,天保4(1833)年に開設した蘭学塾象先堂の門に入るもの数百といわれ,各藩の秀才を網羅していた。門下からは医家のみならず,学者,政治家が輩出。お玉ケ池種痘所は万延1(1860)年幕府直轄となり,翌年西洋医学所(その後変遷を経て東大医学部)と改称されて蘭医学を教授する所となり,文久2年玄朴はその取締に就任した。文久3年奥医師を免ぜられて小普請入となり,明治1(1868)年隠居して家督を養子の方成(玄伯)にゆずった。ビショップの著書を翻訳して『医療正始』(1835)を刊行した。<参考文献>伊東栄『伊東玄朴伝』

(深瀬泰旦)

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改訂新版 世界大百科事典 「伊東玄朴」の意味・わかりやすい解説

伊東玄朴 (いとうげんぼく)
生没年:1800-71(寛政12-明治4)

幕末の蘭方医。肥前国の農家執行家に生まれ,母方の縁者佐賀藩士伊東家の養子となった。名は淵,字は伯寿,冲斎・長翁などと号した。医を志し漢方を学んだのち,佐賀藩医島本竜嘯に蘭方の手ほどきを受け,長崎に遊学して通詞猪俣伝右衛門の学僕となり蘭語学を学び,ついでシーボルトに就学した。シーボルトらの江戸参府のとき,猪俣一家とともに江戸に下る途中,伝右衛門が沼津で病死したため,後事を託されて,のちにその娘をめとった。1833年(天保4)江戸に蘭学塾〈象先堂〉を開き,多くの医生を育成するとともに,《医療正始》24巻,《西洋鉄熕鋳造編》など多くの訳述を行い,また医業も盛名をうたわれ,江戸の蘭方医の中心人物の一人となった。32年(天保3)佐賀藩主鍋島侯から一代士分に取り立てられている。58年(安政5)江戸神田お玉ヶ池の種痘館(のちの種痘所西洋医学所)の設立に尽力,同年戸塚静海とともに幕府奥医師に登用され,幕府医官に西洋医学採用の道を開いた。法印に叙せられ長春院の号を賜った。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「伊東玄朴」の解説

伊東玄朴
いとうげんぼく

1800.12.28~71.1.2

江戸後期の蘭方医。旧姓は執行(しぎょう)。佐賀藩士伊東祐章の養子。名は淵。肥前国生れ。島本竜嘯(りゅうしょう)に医を,長崎の大通詞猪股伝次右衛門にオランダ語を学び,ついでシーボルトにも学ぶ。1826年(文政9)シーボルトの江戸参府に同行,そのまま江戸にとどまり,33年(天保4)御徒町に蘭学塾象先堂(しょうせんどう)を開く。43年佐賀藩主鍋島氏の御側医となる。弘化年間,痘瘡流行に際し,牛痘苗の導入を進言,49年(嘉永2)出島に到着した痘苗を用いて長崎と佐賀で種痘が成功,西日本に普及した。58年(安政5)江戸の蘭方医と神田お玉ケ池に種痘所を設立。これがのち東大医学部の前身西洋医学所となる。同年,将軍徳川家定の重病のとき幕府奥医師に抜擢される。訳書に「医療正始」ほか多数。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「伊東玄朴」の意味・わかりやすい解説

伊東玄朴
いとうげんぼく

[生]寛政12(1800).12.28. 肥前
[没]明治4(1871).東京
江戸時代末期の蘭学者。名は淵,字は伯寿,号は長翁,沖斎。執行 (しゅぎょう) 家に生れ,伊東祐章の養子となる。 23歳で佐賀藩医島本竜嘯に入門,翌年長崎で P.シーボルトに学び,文政9 (1826) 年,江戸に出て蘭学塾象先堂を開く。天保2 (31) 年佐賀藩医となり,牛痘苗の輸入をはかる。安政5 (58) 年お玉ヶ池種痘所を建て,また蘭方医として初めて幕府の奥医師となった。訳書『医療正始』 24巻がある。

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百科事典マイペディア 「伊東玄朴」の意味・わかりやすい解説

伊東玄朴【いとうげんぼく】

江戸末期の医学者。名は淵,号は冲斎,長翁。肥前の農家に生まれ,若くして医学に志し,長崎に遊学,シーボルトに学んだ。1828年江戸で開業,1831年佐賀藩医,1858年幕府の奥医師となる。種痘所の設立にも貢献した。
→関連項目鳴滝塾

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「伊東玄朴」の解説

伊東玄朴 いとう-げんぼく

1801*-1871 江戸時代後期の蘭方医。
寛政12年12月28日生まれ。長崎でシーボルトらにまなび,文政11年江戸で開業。安政5年神田お玉ケ池に私営の種痘館を設立し,幕府奥医師となる。幕府に移管された種痘館(所)が文久元年西洋医学所と改称され,同所取締に就任した。法印。明治4年1月2日死去。72歳。肥前仁比山(にいやま)村(佐賀県)出身。本姓は執行(しぎょう)。名は淵(えん)。字(あざな)は伯寿。号は冲斎(ちゅうさい),長翁。訳書に「医療正始(せいし)」など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「伊東玄朴」の解説

伊東玄朴
いとうげんぼく

1800〜71
江戸末期の蘭方医
肥前(佐賀県)の人。シーボルトに医学を学び,江戸で開業,のち肥前(佐賀県)藩医。牛痘の接種に成功し,1858年江戸に種痘所を創設,西洋医学所(医学所)の前身となる。また蘭方医として最初の将軍侍医となった。江戸に象仙堂 (しようせんどう) を開塾し,緒方洪庵の適々斎塾と並び称される名声を得た。

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367日誕生日大事典 「伊東玄朴」の解説

伊東玄朴 (いとうげんぼく)

生年月日:1800年12月28日
江戸時代末期;明治時代の蘭方医;肥前佐賀藩士
1871年没

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