川路聖謨(読み)カワジトシアキラ

デジタル大辞泉 「川路聖謨」の意味・読み・例文・類語

かわじ‐としあきら〔かはぢ‐〕【川路聖謨】

[1801~1868]江戸末期の幕臣。豊後ぶんごの人。奈良奉行大坂町奉行を経て、勘定奉行海防掛かいぼうがかり外国奉行などを歴任し、日露和親条約に調印。江戸開城の直前に自殺。

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精選版 日本国語大辞典 「川路聖謨」の意味・読み・例文・類語

かわじ‐としあきら【川路聖謨】

幕末の勘定奉行。豊後の人。号、敬斎。江戸小普請組川路光房の養子となり、のち幕府の勘定吟味役佐渡奉行普請奉行、大坂町奉行、勘定奉行、外国奉行などを歴任。嘉永六年(一八五三)ロシア使節プチャーチンと交渉し、翌年、日露和親条約を結ぶ。江戸開城の直前に自殺。享和元~慶応四年(一八〇一‐六八

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改訂新版 世界大百科事典 「川路聖謨」の意味・わかりやすい解説

川路聖謨 (かわじとしあきら)
生没年:1801-68(享和1-明治1)

幕末の勘定奉行で,能吏として知られた。通称は左衛門尉,号は敬斎。豊後の人。父は豊後国日田の代官所の属吏だったが,聖謨は小普請組川路光房の養子となって川路家を継ぎ,勘定所の筆算吟味に合格して勘定方勤務となる。役人の階段を一つずつ上るうち1835年(天保6)の仙石騒動断罪で手腕を発揮し,勘定吟味役に抜擢された。次いで佐渡奉行,小普請奉行,奈良奉行,大坂町奉行などを経て,52年(嘉永5)勘定奉行に昇進する。ペリー来航以前にたたきあげでここまで上ったのは珍しい例だった。53年プチャーチンが長崎に来ると露使応接掛を命じられて西下,続いて翌年には下田で日露和親条約を結んだ。老中阿部正弘,堀田正睦につらなる開明派幕吏の一人とみなされて安政の大獄で左遷,退隠を余儀なくされ,文久年間に短期間外国奉行を務めたがすぐ辞職隠居,中風で半身不随となった。戊辰3月,江戸開城のうわさを聞いてピストルで自殺する。文筆をよくし,露使と応接した《長崎日記》《下田日記》をはじめ,多くの遺著があり,《川路聖謨文書》8巻に収める。
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朝日日本歴史人物事典 「川路聖謨」の解説

川路聖謨

没年:明治1.3.15(1868.4.7)
生年:享和1.4.25(1801.6.6)
幕末の幕府官僚。豊後(大分県)日田代官所属吏内藤吉兵衛の子。4歳の年に一家をあげて江戸に出,12歳で旗本川路家に養子に入り翌年家督相続。文化14(1817)年17歳の年勘定所の筆算吟味に及第し翌年支配勘定出役,以来昇進を重ね,嘉永5(1852)年9月勘定奉行となり海防掛を兼ねた。筒井政憲と共に露使応接掛として長崎へ出張。安政1(1854)年下田に赴きプチャーチンとの間に日露和親条約を調印。蕃書翻訳用掛,禁裏造営用掛,外国貿易取調掛,ハリス上府用掛,朝鮮通信使聘礼用掛を兼ねる。同5年2月老中堀田正睦に随従して上洛,日米修好通商条約調印の承認を朝廷に求めたが失敗した。同年5月西ノ丸留守居に左遷され,翌年8月,徳川慶喜を支持し将軍継嗣問題に介入したとして隠居・差控の処分を受けた。文久3(1863)年5月外国奉行に起用されるが10月辞職,翌元治1(1864)年8月中風の発作が起こり左半身不随となる。徳川将軍家への忠誠を精神の背骨におき,海外事情に通じ開明性をもち続けた。明治1(1868)年3月15日,江戸開城の風説を信じて切腹の作法を終え,短銃で自殺した。「天つ神に背くもよかり蕨摘み飢えし昔の人をおもへば」。古代中国の聖人伯夷,叔斉 のように,新たな世に生きることをやめ天皇の治政に従わず徳川の臣として死を選ぶとの辞世の句である。<参考文献>『川路聖謨文書』,川路寛堂『川路聖謨之生涯』

(井上勲)

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百科事典マイペディア 「川路聖謨」の意味・わかりやすい解説

川路聖謨【かわじとしあきら】

江戸末期の幕臣。左衛門尉。豊後(ぶんご)日田の人。旗本川路家の養子となり,幕府に仕えて認められる。1835年勘定吟味役,奈良奉行・大坂町奉行などを経て,1852年勘定奉行兼海防掛。長崎でロシア使節プチャーチンと交渉し,1854年伊豆(いず)下田で日露和親条約を結ぶなど海防・外交に活躍。安政の大獄で老中阿部正弘らに連なる開明派幕吏とみなされて左遷。江戸開城の翌日ピストル自殺。著書《長崎日記》《下田日記》など多数。
→関連項目古賀謹一郎種痘所尚歯会

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「川路聖謨」の意味・わかりやすい解説

川路聖謨
かわじとしあきら
(1801―1868)

江戸末期の政治家。幕府の徒士(かち)内藤吉兵衛(きちべえ)の子として豊後(ぶんご)国(大分県)日田に生まれ、小普請(こぶしん)組川路三左衛門光房(さんざえもんみつふさ)の養子となる。通称弥吉(やきち)、のち三左衛門。18歳のとき出仕し、下級武士の出身で初めて支配勘定出役(しはいかんじょうでやく)となったが、能力を認められて累進、小普請奉行(ぶぎょう)、奈良奉行、大坂町奉行を歴任し、1852年(嘉永5)勘定奉行となり海防掛を兼ねた。53年ロシア使節プチャーチンの来航に際しては外交交渉のため長崎に赴き、さらに翌54年ふたたび伊豆下田において折衝し日露和親条約を結んだ。ロシア側では、この間の川路の手腕を高く評価している。その後、条約勅許・将軍継嗣(けいし)問題で一橋(ひとつばし)派と目され、大老井伊直弼(なおすけ)にその地位を追われた。63年(文久3)外国奉行となったが、老齢のため数か月で辞職。68年江戸開城締約の翌日(3月15日)ピストル自殺を遂げた。彼の実弟松吉は、幕臣井上新右衛門(しんえもん)の養子となり、のち外国奉行井上信濃守清直(しなののかみきよなお)としてハリスの応接にあたり、兄弟ともに幕末外交史上に活躍した。

[加藤榮一]

『川路寛堂著『川路聖謨之生涯』(1893・吉川弘文館/復刻・1970・世界文庫)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「川路聖謨」の意味・わかりやすい解説

川路聖謨
かわじとしあきら

[生]享和1(1801).4.25. 豊後,日田
[没]慶応4(1868).3.15. 江戸
江戸時代末期の幕臣で外政家。左衛門尉。徒士内藤吉兵衛の子。外国奉行井上清直の兄。旗本小普請組川路三左衛門の養子となる。行政手腕を幕閣に認められ,天保 12 (1841) 年小普請奉行,嘉永5 (52) 年勘定奉行となる。ペリー来航の際,水戸斉昭の幕政参画を主張し,海防に尽力。ロシア使節 E.プチャーチン来航の際は全権として長崎に行き応接にあたった。日米和親条約の勅許奏請のため,老中とともに京都におもむき尽力。将軍継嗣問題で一橋慶喜を推したため,大老井伊直弼と対立して免官,処罰された。文久3 (63) 年外国奉行。慶応4 (68) 年江戸開城の翌日ピストル自殺した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「川路聖謨」の解説

川路聖謨
かわじとしあきら

1801.4.25~68.3.15

幕末期の幕臣。旧姓は内藤。川路家の養子。通称は左衛門尉。佐渡奉行・小普請奉行・普請奉行・奈良奉行・大坂町奉行をへて,1852年(嘉永5)勘定奉行,公事方・海防掛となる。おもにロシアとの外交交渉にあたったほか,禁裏造営・軍制改革に尽力。58年(安政5)堀田正睦(まさよし)の上京に随行したが,帰府すると井伊直弼に左遷され,59年隠居差控となる。63年(文久3)一時外国奉行となるが5カ月で辞任。幕府滅亡時にピストル自殺。佐渡奉行在勤日記「島根のすさみ」や「下田日記」「長崎日記」を残す。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「川路聖謨」の解説

川路聖謨 かわじ-としあきら

1801-1868 江戸時代後期の武士。
享和元年4月25日生まれ。幕臣。勘定奉行兼海防掛となり,安政元年伊豆(いず)下田で日露和親条約に調印。5年日米修好通商条約締結の勅許をもとめる老中堀田正睦(まさよし)の京都行きに随行。将軍継嗣問題で一橋派に属して失脚したが,のち外国奉行となった。慶応4年3月15日ピストル自殺。68歳。豊後(ぶんご)(大分県)出身。本姓は内藤。通称は三左衛門。号は敬斎,頑民斎。
【格言など】小心でなくては大事はできない(「寧府紀事」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「川路聖謨」の解説

川路聖謨
かわじとしあきら

1801〜68
江戸末期の幕臣
豊後(大分県)の人。1852年勘定奉行兼海防掛となり,ロシア使節プゥチャーチンと長崎で交渉。'54年下田で日露和親条約に調印した。'58年堀田正睦 (ほつたまさよし) に従い上京し,日米修好通商条約の勅許獲得に奔走したが失敗。将軍継嗣問題で一橋派に属していたため,井伊直弼により失脚させられた。'63年外国奉行に起用されたが数か月で辞職,'68年江戸開城の翌日ピストル自殺した。

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