禅源寺(読み)ぜんげんじ

日本歴史地名大系 「禅源寺」の解説

禅源寺
ぜんげんじ

[現在地名]八戸市糠塚 北糠塚

長者ちようじや山の北西麓に位置する。臥竜山と号し、臨済宗本尊釈迦牟尼。元和四年(一六一八)知行目録に「六拾九石八斗七升九合 禅源院」とある。根城南部氏により根城ねじようの町寺として建立されたものといい、開山は山城国妙心みようしん(現京都市右京区)四世禅源とされる(「御領内寺院来由全」八戸市立図書館蔵)。草創は正長元年(一四二八)ともいう(新撰陸奥国誌)。根城南部氏の遠野とおの(現岩手県遠野市)転封とともに廃寺となっていたが、盛岡藩二代藩主南部利直が僧桂林を中興開山として招き、寺領五〇石を寄進して沢里さわさと村に移転建立した(御領内寺院来由全、八戸藩史料)。慶安御支配帳(岩手県史)では寺領五〇石を給されている。

禅源寺
ぜんげんじ

[現在地名]古平郡古平町大字浜町

曹洞宗。法興山と号する。本尊は釈迦如来。一八六二年(文久二年)八月松前法源ほうげん(のち本寺となる)などによる蝦夷地への末寺建立願が許され(「木村時義御用留」北海道大学附属図書館蔵)、開創となった。教団における寺号認可は一八六四年(元治元年)九月(「同役衆進達留」国会図書館蔵)。同時期に法源寺により建立された曹源そうげん(現石狩市)徳源とくげん(現小樽市)とともに蝦夷三源寺と称される。当寺は一八五八年(安政五年)以来フルビラ場所にあった観音堂の地所・施設一切を引継ぐかたちで開創し、住職には観音堂住侶太神天山があたった。

禅源寺
ぜんげんじ

[現在地名]作手村白鳥 小田前

陀山と号し、臨済宗永源寺派。本尊は地蔵菩薩。寺伝では、天暦六年(九五二)観空親王の草創で、清巌山善現院と称する真言宗寺院で、本尊は弘法大師作という。その後寺運が衰えていたのを、応安二年(一三六九)弥天永釈が再興して臨済宗となる。

禅源寺
ぜんげんじ

[現在地名]稲沢市稲沢町 寺浦

美濃路の北にあり、金華山と号し臨済宗妙心寺派、本尊十一面観音。永和二年(一三七六)大清を開山とする。永正九年(一五一二)勝岩が中興開山(尾張名所図会)。寛永一一年(一六三四)徳川家光の上洛に宿泊所となり、紋付綾一巻・帷子一重を拝領し、表道具に紋を付けることを許された。

禅源寺
ぜんげんじ

[現在地名]西吉野村大字阪巻

阪巻さかまき東部、山の尾根上にある。曹洞宗。本尊は虚空蔵菩薩。寺伝によると後醍醐天皇が三光国済を請じて一宇を建立したのに始まるという。寛文年中(一六六一―七三)江州清源寺愚明を請じ、禅宗改宗

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報