百科事典マイペディア 「蝦夷地」の意味・わかりやすい解説
蝦夷地【えぞち】
→関連項目赤蝦夷風説考|商場|胆振国|渡島国|海防論|国後・目梨の戦|五稜郭の戦|近藤重蔵|高田屋嘉兵衛|十三湊|西廻海運|日本|箱館会所|場所請負|北海道|松浦武四郎|間宮林蔵|最上徳内
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1869年(明治2)に改称されるまでの北海道の旧称。ただし、古代、中世は、夷狄ヶ島(えぞがしま)、蝦夷ヶ島という言い方が一般的であった。蝦夷地という呼称は、道南地域が渡来日本人すなわち「和人(わじん)」の地となって、松前(まつまえ)を称して以来、これと区別されたエゾ住地を意味し、道央から奥のアイヌ世界をさすようになった。したがって、中世後期以降、その体をなし、近世松前藩の成立とともにその称も定まったということができる。厳密には松前地区を含めないことになるが、一般には全島を含めてこの語で総称する。この呼称はいうまでもなく、古代蝦夷の伝統を近世に伝えたもので、日本史上のエゾ問題の最終章をなすものである。古代では北海道は、蝦夷国すなわち「道(みち)の奥(おく)」のさらなる奥島と考えられ、その意味で「渡島(わたりしま)」ともよばれたが、これを独立した地区と考えることはなかった。エゾ経営が東北地方北部まで志向する平安中期ごろから、これをエゾヶ島(夷狄ヶ島、蝦夷ヶ島、蝦夷ヶ千島(えぞがちしま))とよぶようになる。鎌倉幕府はここに間接的な成敗権を行使し、北条氏の被官安東(あんどう)氏が、津軽十三湊(とさみなと)(岩木川河口)に拠(よ)り、蝦夷管領(かんれい)として、この本州主権を代行していた。北奥の大豪族南部(なんぶ)氏が1443年(嘉吉3)安東氏を津軽から追い、安東氏はエゾヶ島に逃れた。安東氏は1456年(康正2)北羽に戻るが、この安東氏の渡道が、道南に中世武家時代を開く端緒になる。道南には「十二館」が成立、それらを統合して松前氏が、近世松前藩を成立させる。これら和人領主制確立の過程は、外にエゾとの戦いが強められ、彼らの領土を縮め、その利益を奪い、その結果として、彼らの抵抗を誘発する過程でもあった。1457年(長禄1)のコシャマインの戦い、1669年(寛文9)のシャクシャインの戦いは、そのうちでももっとも激烈な抵抗であった。このような戦いを勝ち抜いて、松前藩は、ウイマム(御目見(おめみえ)のアイヌ訛(なま)り)と称する朝貢貿易にこれを組織するほか、その公認された蝦夷地全域の独占的貿易権を「場所」ごとに分割、禄米(ろくまい)のない家臣団に知行(ちぎょう)相当に支配させた。知行主はさらにこれを特権商人に請負わせた。エゾ経済は、この場所請負制のもとに、急速に崩壊していった。幕末、抜荷(ぬけに)(密貿易)、外圧など、松前藩単独のエゾ地支配が不可能になってきたので、幕府はこれを直轄地とするようになり、何回かの変遷を経て、北海道に編成替えされた。
[高橋富雄]
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…(2)城柵経営 大化改新とともに古代国家の蝦夷経営は,北越から東北に舞台を移し,城柵を建造,柵戸(植民)を内国から移し,開拓を行いながら,フロンティアを北進させていき,出羽柵・秋田城(出羽国),多賀城・胆沢(いさわ)城(陸奥国)を中心に,経営は,秋田県八郎潟付近―岩手県盛岡市付近を東西に結ぶ線あたりまで北進した。(3)俘囚郷と蝦夷地 平安初頭の坂上田村麻呂の強力遠征は,古代国家の蝦夷経営の北限となった。岩手最北部,秋田北半部から北の日本は最後の蝦夷国として残る。…
…蝦夷概念のいかんによって意味内容も異なってくるが,蝦夷=エゾ=アイヌという概念が定着した鎌倉時代以降は,アイヌまたはアイヌの主たる居住地である夷島・蝦夷地(現,北海道)との交易をさす。本州社会とアイヌとの交通・交換関係はすでに古代からみられたが,それが歴史的に積極的な意味をもつようになるのは,社会的地域的分業の発展を背景に隔地間交易が発展してくる鎌倉時代以降のことである。…
…本姓高田で姓を屋号とした。兵庫を根拠に日本海・松前方面との廻船業を始め,1798年(寛政10)には箱館にも出店,幕府の北方政策に密着して1800年には択捉(えとろふ)島に至る航路や同島の漁場を開発し,01年(享和1)には幕府から蝦夷地定雇(じようやとい)船頭を命じられた。続いて蝦夷地東部にも場所請負の漁場をも経営,やがて箱館に本店,兵庫・大坂に支店を設けて手船数十艘を動かす有力商人となった。…
…箱館産物会所ともいう。江戸時代,蝦夷地の幕府直轄にともない蝦夷地産物取扱いのために設けられた幕府直営機関。1799年(寛政11)幕府は東蝦夷地を直轄し,その経営を直営とした際,蝦夷地産物の集荷・販売機関として箱館(現,北海道函館市)と江戸に会所を設け,全国枢要の地に御用取扱商人を置いた。…
…定員2名(うち3名),役料1500俵,席次は長崎奉行の次で芙蓉間詰。幕府は,1799年(寛政11)蝦夷地御用掛を置いて東蝦夷地を仮上知し,1802年(享和2)永久上知として蝦夷地御用掛を蝦夷奉行,ついで箱館奉行と改め,蝦夷地(北海道)の本格的な経営に着手した。07年(文化4)松前氏を陸奥国梁川に移封するとともに,奉行所を松前に移して松前奉行と改めた。…
…江戸時代の蝦夷地(北海道・南千島,樺太の一部)における植民地経営の方式。18世紀前期に成立し,明治初年に廃止された。…
… このように化政期の国内状況には深刻なものがあったが,日本を取り巻く国際関係も寛政期と比べて緊迫の度を加えてきた。とくに蝦夷地(えぞち)を中心とするロシアとの紛争が頻発した。そこで幕府は東蝦夷地をまず直轄に移し,次いで東西ともに直轄として直接管理する姿勢をとったが,ロシアとの関係が安定すると,直ちに蝦夷地を松前藩に返付した。…
…面積は全国の約1/5にあたるが,人口は569万2321(1995)にとどまり,人口密度は73人/km2(施政権外の地を除く)であって,全国都道府県の中できわだって低い。
[沿革]
かつては蝦夷地(えぞち)とよばれていた。1855年(安政2)江戸幕府は松前藩に松前地方のみを残して他の蝦夷地を箱館奉行支配の直轄地とし,59年にはこれを分割して奥羽6藩(仙台,盛岡,弘前,秋田,会津,庄内)の領地ならびに警衛地とした。…
…1833年(天保4)から日本国中を遊歴し,38年から5年間長崎,平戸で僧となり,名を文桂と改めたが,この間長崎の乙名(おとな)津川文作から北方の事情を聞いて関心を強め,44年(弘化1)帰郷して還俗したうえで単身北行した。翌45年東西蝦夷地,46年北蝦夷地(樺太),49年(嘉永2)国後(くなしり)島,択捉(えとろふ)島を探査し,《初航蝦夷日誌》《再航蝦夷日誌》《三航蝦夷日誌》などを著した。54年(安政1)江戸幕府が箱館奉行を置いて翌55年蝦夷地を再直轄すると,幕府御雇として蝦夷地御用掛に起用され,56年から58年まで東西蝦夷地,北蝦夷地を探査して《竹四郎廻浦日記》《東西蝦夷山川取調日誌》《東西蝦夷山川取調図》などを著した。…
…松前藩が蝦夷島統治策の一つとして,和人の定住地,村の所在地と規定した蝦夷島南部の一定地域のこと。和人地以北の地を〈蝦夷地〉(千島・樺太島の一部を含む)と称し,アイヌ民族の居住地とした。こうした地域区分体制は,直接的には松前氏のアイヌ交易独占を実現する方策として成立したものであったが,同時に,幕府(長崎)―オランダ・中国,島津氏(薩摩藩)―琉球,宗氏(対馬藩)―朝鮮,松前氏(松前藩)―蝦夷地(アイヌ民族)という鎖国体制下の〈四つの口〉を介した異域・異国との外交・通交関係を軸とした日本型華夷秩序の一環として位置づけられていたところに大きな特徴がある。…
※「蝦夷地」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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