祥雲寺(読み)しよううんじ

日本歴史地名大系 「祥雲寺」の解説

祥雲寺
しよううんじ

[現在地名]一関市台町

願成がんじよう寺の南、にい山南東中腹にある。大慈山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は正観音。寛文二年(一六六二)田村宗良により陸奥岩沼の北長谷きたはせに創建され、長谷山大慈だいじ寺と号した。天和元年(一六八一)宗良の子建顕が一関へ所替になると当地に移され、宗良の母祥雲院を開基として山号を大慈院、寺名を祥雲寺と改めた。山号大慈山は宗良の父伊達忠宗の法名大慈院からとったもの。以後一関藩主田村家の菩提所。

祥雲寺
しよううんじ

[現在地名]堺市大町東四丁

土居川どいがわ公園の西にあり、臨済宗大徳寺派、山号竜谷山、本尊観世音菩薩。かつて松の寺と俗称された。寛永五年(一六二八)堺の豪商谷正安沢庵開山として創建した(東海和尚紀年録)。正安は商人であるとともに茶人として知られ、南宗なんしゆう寺中興開山沢庵に帰依していた。彼は一寺建立を企図し沢庵を開山に招こうと考えたが、当時新寺建立はきわめて困難であった。

祥雲寺
しよううんじ

[現在地名]平良市西里

西里にしざとの北部にある。臨済宗妙心寺派。竜峯山と号する。本尊は釈迦如来。慶長一六年(一六一一)山月を開山として創建され(仲吉朝忠日記)、竜峯山祥雲寺と号し、達磨大師・釈迦如来を安置したという(「球陽」尚寧王二三年条)。「琉球国由来記」には両像ともに木坐像とあり、また山月の位牌があると記される。尚貞王一七年(一六八五)当寺住持は不便を伴うとして、円覚えんかく(現那覇市)の住僧喝三長老が三ヵ年交替で勤めることになった(「球陽」同年条)。雍正旧記に「亥方ニ向フ権現所東側ニあり」と記される。

祥雲寺
しよううんじ

[現在地名]東村押砂

竜淵山と号し、曹洞宗。本尊は聖観音。大正一一年(一九二二)建立の「移転遷座碑文」によると、慶長一一年(一六〇六)齢泉永甫が、長興院(現千葉県香取郡大栄町)を退休して当寺を開山したのが草創という。初め利根川左岸にあったが、しばしば水害を受けたので、享保七年(一七二二)九世良伝のときに東方の小沼こぬまに移転した。また水害があったので文化年間(一八〇四―一八)に一四世大豊は、東方反高場そりたかばに当寺を移したが、明治末年の利根川改修とこれに伴う押砂おしずな全区の移転で当寺も移動を余儀なくされ、大正一一年に現在地に堂宇が完成した。

祥雲寺
しよううんじ

[現在地名]玖珂町本町上

玖珂本郷の中心部近くにあり、曹洞宗。薬師山と号し、本尊は薬師如来

現在の寺地はもと末寺であった城泉じようせん寺で、祥雲寺はもともと谷津やつてらえきにあった。「享保増補村記」には「昔ハ臨済派ニテ、大内家杉治部大輔隆泰代々ノ菩提所也、末寺塔頭ナドアツテ輪番持ノ大寺ナリトイヘリ、杉討死ノ後、壇越ナク漸々破壊シ、御討入ノ後マデモ小庵有シトナリ、今ハ小庵モナク、寺跡トテ二重石垣残リタル計リナリ」とあって、享保期(一七一六―三六)にすでに寺跡となっていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「祥雲寺」の解説

祥雲寺

愛媛県越智郡上島町、岩城島にある曹洞宗の寺院。1431年に建てられた観音堂は国の重要文化財に指定されている。

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世界大百科事典(旧版)内の祥雲寺の言及

【安土桃山時代美術】より

…その内外の建築装飾は鳥獣,草花などをモティーフとし,派手な彩色や牡丹唐草の精巧な透し彫など他の時代に見られぬ生気にあふれた意匠を展開している。また秀吉が愛児棄丸の菩提を弔って1593年(文禄2)に造営した祥雲寺客殿は,天瑞寺にまさる豪壮なものであった。その建物は残らないが,長谷川等伯とその一門による四季の樹木と草花を画題とした金碧障壁画は現在智積院に残り,永徳の巨大樹表現にやまと絵草花図の優美さを加えて,自然への親和の感情を示している。…

※「祥雲寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」