琉球(読み)りゅうきゅう

百科事典マイペディア 「琉球」の意味・わかりやすい解説

琉球【りゅうきゅう】

琉球諸島の総称。現在の沖縄県地方。琉球は漢名で,1372年から1879年まで沖縄の公式名称として使用。明治以降は沖縄が一般的な名称。 沖縄本島南部の具志頭(ぐしかみ)村(現・八重瀬町)港川で出土した化石人骨(港川人)は,洪積世のものとされる。縄文文化は九州から南下,南東の風土に徐々に溶け込み,独特な器形や装飾文様をもつ南島土器文化圏が成立。さらに獣型の貝・骨製品や明刀銭(めいとうせん)の出土にみられる古代中国文化,貝器にみられる南方文化の影響も受けた。日本の弥生時代には,採取した貝を九州へ移出,九州からは弥生式土器が持ち込まれた。ただし宮古・八重山列島では縄文・弥生文化の影響がみられない。 稲作を主体とする農業技術はだいぶ遅れて奄美(あまみ)から南下。9世紀ごろ,本格的農耕社会へと転換し,農業共同体としての地縁集団が形成された。10−12世紀ごろには海外との交易を開始,本島を中心にした地域に農業共同体のリーダーである按司(あじ)とよばれる強力な首長が出現した。按司は,鉄器を大量に輸入して,共同体の生産性の向上をはかり,周辺地域を支配下に治めて勢力を拡大,グスクとよばれる砦を構築して君臨する。按司のおなり神のろ祝女)と呼ばれ(宮古・八重山ではツカサ),支配地の最高神女の地位にあって,按司を守護する役目を担った。按司たちは交易や領地をめぐって互いに対立抗争を繰り返し,14世紀半ばごろには沖縄本島に北山(ほくざん)・中山(ちゅうざん)・南山(なんざん)の小国家が形成される。三山はあいついで中国(みん)朝に入貢,明の冊封(さくほう)体制に参入し,互いに対抗しながら発展していった。 1406年南山の尚巴志(しょうはし)が,当時最大勢力であった中山の察度(さっと)王統を滅ぼし,1429年には首里(しゅり)に拠点をおく統一国家を成立させた(第一尚氏王統)。巴志の子泰久(たいきゅう)は海外貿易に力を注ぎ,日本・中国・朝鮮東南アジアを交易圏とした中継貿易基地の地位を確立させ,琉球が〈万国の津梁(しんりょう)〉であると自負した。外港那覇には首里王府の貿易品収蔵庫も設けられ,1470年,その長官であった内間金丸(うちまかなまる)が,7代尚徳の死後王位について尚円と称した(第二尚氏王統)。その子尚真は,各地の按司を首里に集住させて刀狩を行い,位階を整備。またノロ・ツカサを聞得大君(きこえおおきみ)の統制下に置き,地方行政組織も整備して,奄美から八重山を支配下に入れた中央集権国家を築き上げた。 かねてから琉球の支配を意図していた薩摩島津氏は,1609年徳川幕府の許可を得て琉球に侵攻,戦いの経験のない王国は数日にして降伏した。この結果,奄美諸島は島津氏の直轄領となり,沖縄本島以南は王府領と認められたものの,実質的支配権を握る島津氏のもと,幕藩体制に組み込まれていくことになった。明朝は朝貢国の中でも琉球を厚遇したため,当時,明への朝貢貿易は高い収益を上げていた。その利権を握りたい島津氏は,琉球を疑似国家として存続させて,明との冊封関係を維持させ,那覇には鹿児島藩の在番奉行所を設けて王府を監視,明貿易の管理権を掌握した。また年貢を鹿児島藩に上納することを義務付け,中国風に仕立てさせた使節を幕府に派遣することを命じ,琉球という異国を支配していることを誇示した。1661年,明にかわって(しん)が中国を統一してから,琉球は清を宗主国として冊封関係を継続するが,島津氏の支配下で国内はなお混乱。こうした中で摂政羽地朝秀(はねじちょうしゅう)が王国の政治・経済全般にわたる改革を推し進め,18世紀前半には蔡温(さいおん)が,過重な税負担で疲弊した農村や王府財政の再建に努めた。 1872年,明治政府は琉球藩を設置して国王尚泰を藩王とし,1874年の台湾出兵を契機に琉球が日本領であることを清国に明示,翌年琉球に対し,清国との断絶を迫った。ついで1879年,政府は軍隊を琉球に送って廃藩置県を強行,沖縄県とした(琉球処分)。ここにいたって琉球王国は完全に崩壊した。→琉球語琉球使節琉球文化琉球貿易
→関連項目奄美大島按司異称日本伝エイサー沖永良部島鹿児島藩喜界島球陽蔵元皇民化政策島津家久尚泰調所広郷竹添進一郎中山世鑑中山世譜徳之島南蛮船与論島歴代宝案

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「琉球」の意味・わかりやすい解説

琉球
りゅうきゅう

沖縄の別称沖縄島を中心に多くの島々からなり,南西諸島琉球列島とも呼ばれる。中国の代初め(14世紀後半)頃から,中国および沖縄側の文献で「琉球」ということばが正式に使われるようになった。日本民族の一分枝ではあるが,独自の歴史展開を遂げ,日本本土とはやや異なる文化を形成。最古の人類としては約 3万2000年前の「山下洞人」が知られている。約 7000年前から貝塚時代に入り,縄文文化の影響を受けつつも独特の先史文化を残している。ほぼ 10世紀頃から稲作を伴う農耕社会の段階に達した。11~12世紀頃から古代首長,按司割拠,やがて沖縄島には三つの小国家(山北〈北山〉,中山,山南〈南山〉)が形成され,明朝廷にそれぞれ朝貢し覇を競うが,のち中山に統一された(第一尚氏王朝)。不安定な王権は内間金丸のクーデターで滅び,金丸(尚円)を始祖とする第二尚氏王朝に代わる。第二尚氏 3代目の尚真王代に,北は奄美群島から南は宮古諸島八重山諸島までを版図とする琉球王国が確立。中国,朝鮮,東南アジア諸国および日本本土にまたがる中継貿易を活発に展開し(→琉球貿易),その収入で国力の充実をはかるとともに,先進的な制度,文物を取り入れて,国家としての形式と内容を整えていった。慶長14(1609)年には薩摩藩島津氏の侵略を受け,支配下に置かれたが,中国に対しては明,両朝を通じて約 500年間,冊封・朝貢関係(→朝貢貿易)を続けた。1879年の琉球処分(廃藩置県)によって,正式に日本の近代的な版図のなかに組み込まれた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「琉球」の意味・わかりやすい解説

琉球
りゅうきゅう

沖縄の別称。琉球諸島を範囲とする。淡海三船(おうみのみふね)著『唐大和上東征伝(とうだいわじょうとうせいでん)』(779年成立)に、753年(天平勝宝5)遣唐使一行が阿児奈波島(沖縄島)に漂着したと記されており、本来日本では沖縄と呼称していたが、のちに中国側からの呼称に従って、琉球とよばれているものである。琉球の語源については、現在のところ明らかではない。文字は、古来、種々の表記がみられる。沖縄で書かれた最初のものとして、1605年(慶長10)に書かれた『中山世鑑(ちゅうざんせいかん)』には琉虬と表記されている。中国の、『隋書(ずいしょ)』東夷(とうい)伝に流求国に関する記事があり、これは琉球の名が史上に登場する最初のものである。しかし、流求が現在の琉球をさしているのか、あるいは台湾をさしているのかについての論争が明治から昭和初期にかけて行われたが、いまだ定説はない。その後、流鬼瑠求留求など種々な文字が使用されてきたが、『明実録』以後、琉球となっている。沖縄島が中山・南山・北山と三分されて抗争していた三山分立時代を経て、1429年、尚巴志(しょうはし)によって三山(沖縄)が統一され琉球王国となった。その間、1609年島津氏の侵入によって、琉球は薩摩藩(さつまはん)の支配下に置かれる一方、清(しん)国との関係も維持してきた。その後、1872年(明治5)琉球藩が設置されたが、1879年に廃藩、沖縄県となった。

[堂前亮平]

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精選版 日本国語大辞典 「琉球」の意味・読み・例文・類語

りゅうきゅう リウキウ【琉球】

[1]
[一] 沖縄の別称。奄美大島以南をさす場合と、沖縄諸島以南をさす場合とがある。隋代には台湾をさし、明末に現在の沖縄の呼称となる。一五世紀はじめ尚氏(中山王)が全土を統一し、明に朝貢し中国文化を輸入した。一七世紀はじめ島津氏(薩摩藩)に征服されたが、日中両属の形をとった。明治政府になり日清両国がその帰属をめぐって争った末、明治一二年(一八七九)沖縄県がおかれ正式に日本領となった。昭和二〇年(一九四五)太平洋戦争末期にアメリカ軍に占領され、アメリカの統治下にあったが、同四七年日本に復帰した。球陽(きゅうよう)
※性霊集‐五(835頃)為大使与福州観察使書「北気夕発、失胆留求之虎性」
※随筆・戴恩記(1644頃)下「天下をだやかにして、琉球の島、高麗の者共まであがめ奉る」
※浮世草子・好色由来揃(1692)四「今琉球といふ手を、三線のいろはとさだめ、ならひはじめの人におしへり」
[2] 〘名〙
※雑俳・冠独歩行(1702)「ちかい事・りうきうに寝る御座の上」
※当世少年気質(1892)〈巖谷小波〉六「其外にはお召縮緬、糸織、琉球」

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デジタル大辞泉 「琉球」の意味・読み・例文・類語

りゅうきゅう〔リウキウ〕【琉球】

沖縄のこと。中国側からの呼称。14世紀に沖縄島に北山・中山・南山の三つの小国家ができ、のち、中山が統一王朝を樹立に朝貢し、中国文化を輸入した。慶長14年(1609)薩摩さつま藩に征服されたが、中国との関係も維持。明治政府は明治5年(1872)琉球藩を設置、さらに明治12年(1879)王国体制を解体して沖縄県を設置した。
[補説]平成12年(2000)「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の名で、今帰仁城跡座喜味城跡勝連城跡中城城跡首里城跡、園比屋武御岳石門玉陵識名園斎場御岳が世界遺産(文化遺産)に登録された。

琉球おもて」の略。
琉球つむぎ」の略。

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旺文社世界史事典 三訂版 「琉球」の解説

琉球
りゅうきゅう

現在の沖縄県
15世紀に尚氏が全土を統一したが,中国に朝貢して中国文化の影響を受け,また東南アジア・日本・朝鮮の中継貿易に活躍した。17世紀初め,薩摩藩の島津氏に征服された。島津氏は琉球を通して中国貿易を行い,莫大な利益をあげた。19世紀には欧米艦船が通商を求めるようになり,1853年日本へ赴く途中,ペリーが来航して修好条約を結んだ。明治政府が成立すると1879年に日本の沖縄県となり,第二次世界大戦後はサンフランシスコ条約によりアメリカの統治下に置かれ,戦略基地となっていたが,復帰運動が強まり,1972年本土に復帰した。

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[日本酒・本格焼酎・泡盛]銘柄コレクション 「琉球」の解説

りゅうきゅう【琉球】

沖縄の泡盛。酒名は、沖縄最古の蔵元であることに誇りを持ち続けたいという思いを込めて命名。「クラシック」は創業時のラベルを復刻した一般酒。ほかに長期熟成古酒「プレミアム」などがある。原料はタイ米、黒麹。アルコール度数25%、30%、35%、44%。蔵元の「新里酒造」は弘化3年(1846)創業。所在地は沖縄市字古謝。

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旺文社日本史事典 三訂版 「琉球」の解説

琉球
りゅうきゅう

沖縄の別称。

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世界大百科事典 第2版 「琉球」の意味・わかりやすい解説

りゅうきゅう【琉球】

沖縄の別称。1372年から1879年までの約500年間,沖縄の公式名称として用いられた。〈南島〉という場合もある。現在の沖縄県の県域を中心に,地理的,文化的には奄美(あまみ)諸島(鹿児島県)をも含む。これらの島々で話される言葉を琉球語(琉球方言)といい,生活文化を琉球文化の名で総称する。日本語,日本文化の一環に属しながらも強い個性的な性格を有する。〈琉球〉は中国人による命名で,〈小琉球(台湾)〉と区別するために〈大琉球〉と呼ばれたこともある。

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世界大百科事典内の琉球の言及

【異域・異国】より

…中国は,日本と文禄・慶長年間(1592‐1615)に敵国として戦争して以後,ついに日本側が望む外交関係は復旧できず,清の政策変化はあったけれども,唐人貿易は基本的に海禁無視の私貿易であった。 薩摩口は琉球国と交際する口であったが,琉球は国家公権を持つ独立国でありながら,近世国家の異域の位置にあった。明・清国への朝貢国であったが,石高制の貫徹,薩摩藩士の常駐,キリシタン禁制,薩摩藩への貢納義務などは,幕府と大名島津氏の支配を示す側面であった。…

【球陽】より

…琉球の歴史を記した史書。本巻(正巻22,付巻4)と外巻(正巻3,付巻1)からなり,外巻は《遺老説伝》の別称をもつ。…

【琉球征服】より

…1609年(慶長14)薩摩の島津氏が樺山久高を将とする3000余名の軍勢を派遣して琉球を侵略した事件。島津侵入事件ともいう。…

【歴代宝案】より

…琉球王国の外交文書を集めたもの。第1~3集,約250冊からなる膨大な記録。…

※「琉球」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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