石打村(読み)いしうちむら

日本歴史地名大系 「石打村」の解説

石打村
いしうちむら

[現在地名]邑楽町石打

藤川ふじかわ村の西に位置し、西は山田郡八重笠やえがさ村・竜舞りゆうまい(現太田市)、南は篠塚しのづか村、北は山田郡沖之郷おきのごう(現太田市)。太田往還が村中央を東西に通る。中世には佐貫さぬき庄に含まれており、一五世紀半ば頃(年月日欠)の岩松持国闕所注文(正木文書)に石打兵部少輔知行分として石打郷がみえる。室町時代には狸塚むじなつかや当地では紀州熊野那智神社への組織的参詣が盛んであったようで、文明六年(一四七四)宝積房盛満が那智山御師実方院に売却した佐貫庄内先達職には「石内」の東林坊が含まれており(同年一〇月二四日「先達職注文」熊野那智大社文書)、東林坊は同一七年六月一三日のつゝみ藤左衛門旦那売券(同文書)などにもみえる。

石打村
いしうちむら

[現在地名]長岡市石内いしうち一―二丁目・西蔵王にしざおう一丁目・いずみ一―二丁目

長岡城下神田かんだ町の北、蔵王の南にある。極楽寺の門前集落。正保国絵図に村名がみえ、無高。土地の大部分は極楽寺領で、元禄郷帳・天保郷帳ともに高五〇石。うち(柿川)が信濃川に注ぐ河口近くの岸に船着場が設けられ、蔵王権現参詣者が蝟集して遊廓などもあった。

石打村
いしうちむら

[現在地名]月ヶ瀬村大字石打

尾山おやま村の東北方に立地。中世の石打庄(春日神社文書)に比定される。慶長郷帳では村高五二八・六五石、御番衆領。元和元年(一六一五)郡山藩(水野勝成)領となり、同藩の二割半無地高増政策で村高は六六一・二七五石となった。延宝七年(一六七九)幕府領、元禄一五年(一七〇二)川越藩(柳沢吉保)領、宝永元年(一七〇四)幕府領となり、享和元年(一八〇一)再び郡山藩(柳沢保光)領に編入された。

石打村
いしうちむら

[現在地名]佐伯市堅田かたた 石打

府坂ふさか村の南東、堅田川右岸の同川分流石打川流域に位置。正保郷帳に村名がみえ、田高八三石余・畑高五二石余、堅田郷に属した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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