柳沢吉保(読み)ヤナギサワヨシヤス

デジタル大辞泉 「柳沢吉保」の意味・読み・例文・類語

やなぎさわ‐よしやす〔やなぎさは‐〕【柳沢吉保】

[1659~1714]江戸中期の大名。徳川綱吉側用人となり、やがて老中格から大老格となって甲府15万石を領した。文治政策を推進したが、綱吉の失政の責任を一身に負わされ、綱吉死後は隠棲。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「柳沢吉保」の意味・読み・例文・類語

やなぎさわ‐よしやす【柳沢吉保】

江戸前期の老中。甲府藩主。綱吉が館林侯であった時から仕え、将軍となると小納戸、側用人となって活躍し、自邸に将軍の来臨をたびたび仰いだ。川越城主から甲府一五万石に栄進。綱吉の生母の信用をも得、儒者荻生徂徠、細井広沢らの知識を活用して元祿時代文治政治の推進を行なった。万治元~正徳四年(一六五八‐一七一四

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「柳沢吉保」の意味・わかりやすい解説

柳沢吉保
やなぎさわよしやす
(1658―1714)

江戸幕府5代将軍徳川綱吉(つなよし)側近の寵臣(ちょうしん)。初名房安(ふさやす)、保明(やすあきら)、通称弥太郎(やたろう)。柳沢氏は甲州武田の旧臣、武田勝頼(かつより)滅亡ののち徳川氏に仕えた。保明の父安忠は駿河大納言(するがだいなごん)忠長(ただなが)付きとなり、忠長改易により一時浪人したが、ほどなく館林(たてばやし)藩主時代の綱吉に仕え、同藩の勘定頭(かんじょうがしら)を勤め、知行(ちぎょう)高160石と蔵米370俵を受けた。保明は1675年(延宝3)相続、綱吉の小姓(こしょう)を勤め、80年綱吉の将軍就任に従って幕臣に加えられ、小納戸(こなんど)となった。その後頻繁に昇進・加増を受け、85年(貞享2)従(じゅ)五位下出羽守(でわのかみ)に叙任。88年(元禄1)側用人(そばようにん)に昇り、1万2000石余の大名となる。90年従四位下に昇進、2万石加増。94年侍従に昇進、武蔵(むさし)(埼玉県)川越城主として7万2000石を領し、老中格となる。98年老中より上格の左近衛権少将(さこんえのごんのしょうしょう)に昇任。1701年(元禄14)には松平の家号を許されるとともに、綱吉の偏諱(へんき)を賜って、保明は吉保、その子安貞(やすさだ)は吉里と改名した。04年(宝永1)には従来徳川一門にしか与えられたことがない甲斐(かい)国(山梨県)15万石余に封ぜられ、甲府城主となったが、09年綱吉が死去し、その甥家宣(いえのぶ)が6代将軍に就任すると、吉保は隠居して保山元養と号し、正徳(しょうとく)4年11月2日駒込(こまごめ)の別荘六義園(りくぎえん)で死去した。甲斐山梨郡の永慶寺に葬り、のち同郡恵林(えりん)寺に改葬した。

 吉保の著しい栄進は将軍綱吉の異常なまでの寵愛(ちょうあい)によるものであったから、吉保は悪辣(あくらつ)な策謀家であったとの風評が広く流布しているが、彼はさほどの悪人ではなく、また天下の政治を左右するほどの手腕家でもなかった。むしろ愚直なほど誠実に綱吉の意に従った側近であり、なまじの才気のなかったことが、かえって気まぐれな将軍に長く奉仕しえたゆえんであろう。ただし、藩主としてはかなり施政に心がけ、領民に慕われていたらしい。また学問・教養の面では、綱吉の好学に迎合したとみられる点もあるが、家中に荻生徂徠(おぎゅうそらい)など優れた学者を召し抱え、和学では北村季吟(きぎん)について古今伝授を受け、詩歌のたしなみもあった。1677年(延宝5)20歳のとき竺道祖梵(じくどうそぼん)について参禅して以来、多くの禅僧によって工夫(くふう)を重ね、95年万福寺5世高泉性潡(こうせんしょうとん)から印可を受けた。その問答録を徂徠らに編纂(へんさん)させ、霊元(れいげん)法皇から勅題と序文を賜ったのが『勅賜護法常応録鈔(しょう)』である。

[辻 達也]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「柳沢吉保」の意味・わかりやすい解説

柳沢吉保【やなぎさわよしやす】

江戸前期の幕府重臣。名は保明(やすあきら)。幼少から館林(たてばやし)藩主徳川綱吉に仕え,1680年綱吉が将軍になると側用人に登用された。その後,1694年川越藩主(7万余石)で老中格,1698年大老格,1704年甲府藩主(15万石)と異例の出世ぶりを示した。この間,幕政の実権を握って文治政策を推進,綱吉の意に投じた。綱吉の寵愛が強かったため,《護国女太平記》などの実録本によって悪辣(あくらつ)な策謀家との風評が流布したが,さほどの悪人ではなく,綱吉に誠実に仕え,その意に従った側近といえる。家中に荻生徂徠らの学者を召し抱え,自ら北村季吟について古今伝授を受けている。晩年六義園に隠居。→柳沢氏
→関連項目甲斐国元禄時代甲府[市]甲府藩服部南郭柳沢淇園

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

改訂新版 世界大百科事典 「柳沢吉保」の意味・わかりやすい解説

柳沢吉保 (やなぎさわよしやす)
生没年:1658-1714(万治1-正徳4)

江戸幕府5代将軍徳川綱吉の寵臣。初名房安,保明(やすあきら),通称弥太郎。父安忠は館林藩時代の綱吉に仕え,勘定頭を務め,知行高160石と蔵米370俵を受けた。保明は1675年(延宝3)相続,綱吉の小姓を務め,80年綱吉の将軍就任に従って幕臣に加えられ,小納戸となった。その後頻繁に昇進,加増を受け,85年(貞享2)従五位下出羽守に叙任。88年(元禄1)側用人に昇り,1万2000石の大名となる。90年従四位下に昇進,2万石加増。94年武蔵川越城主として7万2000石を領し,侍従に昇進。98年老中より上格の左近衛少将に昇任。1701年には松平の家号を許されるとともに,綱吉の偏諱(へんき)を与えられ,保明は吉保,その子安貞は吉里と改めた。04年(宝永1)には従来徳川一門にしか与えられたことがない甲斐15万石に封ぜられ,甲府城主となったが,09年綱吉が死去し,その甥家宣が6代将軍に就任すると,吉保は隠居して保山元養と号し,1714年駒込の別荘六義園で死去した。吉保の著しい栄進は将軍綱吉の異常なまでの寵愛によるものであったから,吉保は悪らつな策謀家であるとの風評が《護国女太平記》などによって広く流布しているが,彼はさほどの悪人ではなく,むしろ愚直なほど誠実に綱吉の意に従った側近であったといえよう。ただし藩主としてはかなり政治に心がけ,領民に慕われていたらしい。また学問・教養の面では,綱吉の好学に迎合したと見られる点もなくはないが,家中に荻生徂徠などすぐれた学者を召し抱え,和学では北村季吟について古今伝授を受け,詩歌のたしなみもあった。1677年20歳のとき竺道祖梵に参禅して以来,多くの禅僧についてくふうを重ね,95年高泉性潡から印可を受けた。その時の問答録を徂徠らに編纂させ,霊元法皇から勅題と序文を賜ったのが《勅賜護法常応録鈔》である。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「柳沢吉保」の解説

柳沢吉保

没年:正徳4.11.2(1714.12.8)
生年:万治1(1658)
江戸中期の幕臣,大名。通称は主税,弥太郎。諱は初め房安,保明。初め幕臣,のち徳川綱吉に付属して館林藩士となった安忠の子。延宝3(1675)年父の家督(知行160石,廩米370俵)を相続して綱吉に仕え,小性組を勤めた。8年綱吉の将軍家相続に伴って幕臣に加えられ,小納戸となった。天和1(1681)年には300石を加増されたうえ,廩米を改められて830石を知行す。貞享1(1684)年200石加増。翌2年従五位下出羽守に叙任され,3年にも1000石加増。元禄1(1688)年側用人に昇進して1万石を加増され,大名に取り立てられた。3年2万石,5年3万石,7年にも1万石を加増されて7万2030石を領し,武蔵国川越城主となった。その間,3年に従四位下に昇り,7年には初めて評定の席に出座を許され,侍従に任じ,老中格に昇進。10年2万石加増。翌11年には左近衛少将に任ぜられて老中より上席となり,14年には松平の家号を許されるとともに,綱吉の諱の1字を与えられて美濃守吉保と称した。 元禄15年にも2万石加増。宝永1(1704)年には,綱吉が甲府藩主徳川家宣を継嗣に定めたときの功労により3万9200石余を加増され,家宣の旧領であった甲斐・駿河両国のうち15万1200石余を賜った。さらに翌2年,駿河国の領知を甲斐国のうちに移されて山梨・八代・巨摩3郡一円を領することになったが,その実高は22万8700石余にもおよんでいた。宝永6年綱吉の死後隠居し,駒込の別荘六義園(東京都文京区)で没した。異例の出世をしたため,権勢欲の強い人と思われがちであるが,むしろ誠実な人柄で,その出世は,毀誉褒貶の激しい綱吉に忠勤第一に仕えた結果とみられる。元禄3年当時の諸大名を調査し編纂した『土芥寇讎記』という書にも,「信アレバ徳アル故ニ,上意ニモ叶ヒ,家繁昌スト見ヘタリ」と記載されている。

(深井雅海)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「柳沢吉保」の意味・わかりやすい解説

柳沢吉保
やなぎさわよしやす

[生]万治1(1658).江戸
[没]正徳4(1714).11.2. 江戸
江戸幕府5代将軍徳川綱吉の寵臣。老中。甲府藩主。刑部 (おさかべ) 左衛門安忠の5男。初め房安,のち保明,吉保と改名。通称は主税,弥太郎。父が当時上野国,館林藩主であった綱吉に仕え勘定頭をつとめていたので,吉保も年少から小姓組に入った。延宝8 (1680) 年綱吉が将軍として江戸城西の丸に入ると供奉して小納戸役となり,元禄1 (88) 年には側用人として万石の列に入った。綱吉の意をよく解し側近としての能力もあったので,威権は老中をしのぐほどであった。同7年老中格,同 11年老中上座を与えられた。学問を好み,禅にも明るく,世にいわれるような陰謀家,野心家ではなく,謹直誠実な性格であったらしい。幕閣においては政治上の卓越した経綸や施策を残してはいないが,荻生徂徠を 500石で召しかかえるなど儒者を好遇した。側室の霊樹院染子,正親町町子はともに才媛で,町子の『松陰日記』は名作として知られている。宝永1 (1704) 年甲府に移封し 15万石を領したが,綱吉の死後は致仕して安泰をはかり,江戸駒込の六義園 (りくぎえん) に隠棲した。子の吉里はのちに大和郡山 15万1千石を領した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「柳沢吉保」の解説

柳沢吉保 やなぎさわ-よしやす

1659*-1714 江戸時代前期-中期の大名。
万治(まんじ)元年12月18日生まれ。柳沢安忠の子。5代将軍徳川綱吉の小納戸(こなんど)役から元禄(げんろく)元年側用人(そばようにん),7年武蔵(むさし)川越藩(埼玉県)藩主となり老中格にすすみ,14年松平姓をゆるされる。荻生徂徠(おぎゅう-そらい)らを登用し文治政治を推進。宝永元年15万石余に加増され,甲斐(かい)(山梨県)府中藩主柳沢家初代となる。6年綱吉没後に隠居。正徳(しょうとく)4年11月2日死去。57歳。初名は房安,保明(やすあきら)。通称は弥太郎。号は保山,元養。著作に「常応録」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

山川 日本史小辞典 改訂新版 「柳沢吉保」の解説

柳沢吉保
やなぎさわよしやす

1658~1714.11.2

江戸中期の大名,徳川綱吉の側近。初名房安・保明,通称主税・弥太郎。父安忠は館林藩主時代の徳川綱吉に仕え,吉保も小姓として近侍。綱吉の将軍就任にともない幕臣となる。1688年(元禄元)側用人となり,1万2000石余。数度の加増と異例の昇進で,老中格・老中上座となり,1701年松平姓と将軍の諱の一字を与えられ,吉保と改名。04年(宝永元)には甲府15万石余を与えられる。荻生徂徠・細井広沢ら学者を重用して元禄期の幕政を主導したが,吉保自身には専制的な側面は薄かったという。09年綱吉の死後,家督を吉里に譲って隠居,保山と号した。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「柳沢吉保」の解説

柳沢吉保
やなぎさわよしやす

1658〜1714
江戸中期の5代将軍徳川綱吉の側用人
初名保明 (やすあきら) 。上野(群馬県)館林藩主だった綱吉の小姓となり,綱吉が将軍となるとしだいに立身して1688年側用人に任じられ,武蔵(埼玉県)川越城主・甲府城主と転じた。元禄期(1688〜1704)の文治政治を推進し荻生徂徠 (おぎゆうそらい) を儒臣に登用したりしたが,綱吉の没後隠居した。東京都文京区にある六義園は,吉保が築造した庭園である。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

367日誕生日大事典 「柳沢吉保」の解説

柳沢吉保 (やなぎさわよしやす)

生年月日:1658年12月8日
江戸時代前期;中期の大名;老中上座(大老格)
1714年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の柳沢吉保の言及

【甲斐国】より

…綱重から子綱豊(のちの家宣)が将軍綱吉の養嗣子として江戸城西丸に入るまで甲府家は43年間続いた。1704年(宝永1)柳沢吉保が山梨,八代,巨摩3郡を受封,子吉里が24年(享保9)転封するまで2代にわたって国中地方を領有した。これに対して郡内領(都留郡)は,1601年鳥居成次が谷村(やむら)城主に任ぜられたが,子成行が徳川忠長の事件のため家老として32年改易されると,幕領となって城番が置かれた。…

【川越藩】より

…信綱は川越城を拡大再建,地割・町割を行って城下町に十ヵ町四門前の制度を整備し,新河岸川舟運の開設,荒川瀬替えに伴う川堤築造,武蔵野開発と野火止用水開削,総検地の実施,二毛作・早稲・畑作奨励と技術指導を用い,藩政確立に尽力した。その孫信輝は94年(元禄7)下総国古河に転じ,代わって側用人柳沢吉保が7万2030石で入った。吉保は川越南方の立野を開発,検地によって三富(さんとめ)新田を成立させた。…

【甲州金】より

…(1)古甲金(ここうきん) 元禄(1704)以前の甲州金の総称で,竹流金,判金,碁石金,太鼓判金等があり,表は無文のものが多く品位が高かった。(2)甲安金(こうやすきん) 1707年(宝永4)から14年(正徳4)に甲斐に封ぜられた柳沢吉保が,元禄小判改悪にならって改鋳したもの。(3)甲安今吹(こうやすいまふき) 1714年に吉保の子吉里が正徳小判に準じて改鋳したもの。…

【側用人】より

…側用人はまったく奥向きの職であり,表方の役職に対し制度上の権限をもつものではないが,将軍の厚い恩寵を背景にその発言は政務の上に強大な権威をもった。ことに成貞に続く柳沢吉保に至っては,官は左近衛少将という大老格に昇進し,綱吉の寵遇いちじるしかったので,その権勢増大はなはだしく,側用人政治とも評せられた。6代家宣,7代家継の代にも間部詮房(まなべあきふさ)がこれに登用され,幕政の中枢に位置した。…

【柳沢騒動物】より

…柳沢騒動を材料にした作品群をいう。柳沢吉保は,小身者から将軍徳川綱吉の寵愛(ちようあい)を得て大大名に出世したが,実録本の《護国女太平記》は吉保を野望をもつ悪人として描き,講釈ではお家騒動風に脚色して語られた。歌舞伎の作品はこれらを材料にして作られた。…

【六義園】より

…東京都文京区本駒込6丁目にある回遊式の庭園。柳沢吉保の下屋敷跡。将軍徳川綱吉より1695年(元禄8)当時の染井村駒込に4万7000坪の地を与えられた吉保が7ヵ年余をかけて完成し,彼みずから園名を六義園(むくさのその),屋形を六義館(むくさのたち)と名付けた。…

※「柳沢吉保」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android