遊廓(読み)ゆうかく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「遊廓」の意味・わかりやすい解説

遊廓
ゆうかく

公娼(こうしょう)を政治的意図により集団定住させておく区画。遊廓の周囲を堀で囲んだりして特殊区域であることを明示したのを、城郭に見立てて廓(くるわ)と俗称した。遊廓を一般都市社会から隔離するのは、治安・風俗の取締りおよび私娼対策を便利にする目的に基づく。日本では、中世末期に都市の発達に伴って小規模な集娼地区が形成され始めたが、政策的な遊廓の設置は豊臣(とよとみ)秀吉が大坂と京都に相次いで認めたのを起源とし、徳川幕府がこれを継承して整備した。幕府は全国に約20か所の遊廓を指定するとともに、増設を規制し、遊女・遊女屋を取り締まる規則を定めた。指定された遊廓のおもなものは、江戸吉原、駿府(すんぷ)(静岡)弥勒(みろく)町、佐渡鮎川(あゆかわ)、大津柴屋(しばや)町、敦賀(つるが)六軒町、京都島原、伏見撞木(ふしみしゅもく)町、奈良木辻(きつじ)、大坂新町、兵庫磯(いその)町、備後鞆(びんごとも)、下関稲荷(しものせきいなり)町、博多(はかた)柳町、長崎丸山などであった。指定地は、年代や伝承によって若干の変動はあるが、主要なものは前代からの存在を追認しながら、市中での場所を移転させて承認したものが多い。また、前記の地名からも、大都市や交通の要地にとって遊廓が必要な存在であったことをうかがうことができる。この必要性は、宿駅における飯盛女(めしもりおんな)を準公認の遊女として認めたり、諸大名領知下の地方都市に茶屋町などの名称で集娼地区が設けられたことにつながり、さらに江戸深川、京都祇園(ぎおん)、大坂島之内などの三都における私娼街をも黙認させる結果となった。もちろん、これらは公式な遊廓ではないが、規模の大きなものは遊廓と同一視されていた。そこに、幕府の売春対策の不徹底さが露呈しているとともに、需要には抗しきれなかった実態を示すものといえよう。幕末開港後の横浜や函館(はこだて)に外国人を対象とする遊廓が開設されたのも、類似の現象である。

 遊廓の規模・構成は一様でなく、各地の地理的、経済的、風俗的条件に左右された。しかし幕府公認の遊廓には共通の要件があった。遊廓の多くは市街の外周部に置かれ、島原や吉原のように周囲に溝を掘り、通行は大門(おおもん)の一方口とするのを典型とした。これによって外部との境界を明確にし、不法な遊客の出入りや遊女の廓外への外出・逃亡を監視する手段とし、大門のわきには番小屋を置いた。廓内には、遊女屋、揚屋(または引手茶屋)、茶屋、芸者屋(芸妓(げいぎ)置屋)などの主要構成員のほか、飲食店や日用雑貨屋などが居住していた。遊女屋には上級から下級まで何種類もあり、区画を分けて同級の店をまとめて配置するのが普通で、遊興費の差が上下で数十倍もあるため、遊客や遊興の内容には大差があった。遊廓のうちでも三都(京都、江戸、大坂)の遊廓は規模も大きく格式も高かったが、これに長崎を加えて「京の女郎に江戸の張りをもたせ、長崎の衣装を着せて大坂の揚屋で遊ぶ」ことが最高の遊びの目標であった。これは各遊廓の長所、特色を取り上げて理想郷を述べたものである。同時にこれらの代表的遊廓における揚屋遊びには、売春における情緒的要素が濃厚で、そこに一種の社交場的性格が醸し出されていたことを指摘することができる。

 揚屋の客は、初期には上流の武士や経済力を背景とした新興の町人が主流であり、優れた芸人・幇間(ほうかん)を集め、招かれる遊女も教養豊かな太夫(たゆう)たちであった。その社交場的性格によって、遊廓は多くの知識人を集め、そこから文学、演芸、音楽、美術をはじめ一般生活・風俗に至る広い分野に新鮮な影響を与えて遊廓の存在価値を高めた。粋(すい)や「いき」という江戸時代の美学の形成にも深くかかわっており、歌舞伎(かぶき)芝居と並ぶ二大娯楽機関としての地位を得ていた。しかし、江戸末期には高踏的な格式や高額な遊興費などの遊廓自身の欠陥と、安価で自由な私娼街の進出によって、しだいに有力な客層を失い、文化的色彩は衰えた。

 1872年(明治5)の娼妓解放令後は、遊女屋が貸座敷と名をかえたのにしたがって貸座敷営業指定地として集娼制が継続した。その際、従来は黙認だった私娼街が新たに遊廓として公認されたものが多く、集娼制は明治以後に整備強化されたといえる。その結果、1929年(昭和4)末には全国の遊廓数546か所、娼妓数4万9377人に達した。これには、明治時代以後における資本主義の発展による一般経済力の上昇が基本的背景となっているほか、性病対策や、当時の軍隊の存在と関連するところが大きかった。ただし明治以後の遊廓は、江戸時代における社交場的機能を失っていた。

 第二次世界大戦後の公娼制廃止とともに、特殊飲食店街(いわゆる赤線地帯)に移行して営業を続けたが、1958年(昭和33)4月、売春防止法の実施によって終止符を打った。

[原島陽一]

『西山松之助著『くるわ』(1963・至文堂)』『宮本由紀子編『江戸の遊廓――目でみる遊里・吉原篇』『江戸の遊廓――目でみる遊里・島原・新町・丸山篇』(1986・国書刊行会)』『石井良助著『江戸の遊廓の実態』(中公新書)』


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山川 日本史小辞典 改訂新版 「遊廓」の解説

遊廓
ゆうかく

遊郭・廓(くるわ)とも。原則として公娼制のもとで指定された売春区画。豊臣政権の公娼制ではあいまいだったが,江戸幕府は特別の区域として一般から隔離した。社会的には廓内人口の別立てや,町役負担の免除,地理的には周囲を溝や塀で囲んで出入を一方口とした。しかし,京の島原,江戸の吉原,大坂の新町,長崎の丸山などの主要地以外は,全国の遊廓数(25カ所前後)も明確でなく,半公認の存在や私娼取締りの不徹底もあった。明治期以後も実質的に継続しつつ拡大したが,1946年(昭和21)の公娼廃止で形式的に閉鎖,58年の売春防止法で完全に消滅した。近世の遊廓は一種の社交場的機能をもち,芝居とともに近世文化の形成に重要な位置を占めた。しかし明治期以後はたんなる売春地帯で,そのような機能は失われた。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

普及版 字通 「遊廓」の読み・字形・画数・意味

【遊廓】ゆうかく

妓楼。

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