物部郷(読み)もののべごう

日本歴史地名大系 「物部郷」の解説

物部郷
もののべごう

三養基みやき北茂安きたしげやす町大字中津隈なかつくま板部いたべ物部神社を中心とする一帯の地域に比定される。洪積低丘陵地の南に沖積平野が展開する。

肥前風土記」に、

<資料は省略されています>

とある。推古天皇の一〇年、新羅征討のため撃新羅将軍の来目皇子が筑紫に至った時、物部若宮部(物部氏に属して神祭に従事した部民)を遣わしてこの村に社を建てて物部経津主神を祀らせたことから郷の名となった、という伝承である。

物部郷
もののべごう

和名抄」所載の郷。駿河国益頭郡・近江国栗太郡などの同名郷の訓注「毛乃々倍」に従う。物部氏の拠所にちなんだ郷名と推測でき、「和名抄」一八例のうち三例が美濃にあり、多藝たぎ郡・安八郡・本巣もとす郡と美濃国西部に集中する。大宝二年(七〇二)の御野国本簀郡栗栖太里戸籍(正倉院文書)に物部姓がみえるが、安八郡にも多くの物部姓が推測される。美濃国神名帳に従五位下物部明神とあるが、現安八町東結ひがしむすぶ地内入方いりかた津島つしま神社が古来物部明神と称したとの伝承があり、また同町森部もりべ大県おおあがた神社は物部氏の祖神を祀ったものとされる。

物部郷
もののべごう

「和名抄」所載の郷。近江国栗田郡・駿河国益頭郡などの同名郷の訓注「毛乃々倍」に従う。郷名より物部氏との関連が考えられ、「続日本紀」宝亀八年(七七七)一一月八日条に「左京人正八位下多藝連国足等二人賜姓物部多藝宿禰、美濃国多藝郡人物部坂麻呂等九人物部多藝連」とみえる。物部多芸連(宿禰)という氏姓から、多藝郡域における物部氏の定着が推定できる。また彼らはその氏姓から本来は美濃国多藝郡を本貫とし、左京に移貫したと思われる。

物部郷
もののべごう

「和名抄」高山寺本・東急本・元和古活字本のいずれも訓を欠く。郷名の初出は平城宮出土木簡に、「尾張国愛知郡物部里白米大□二斗」「和銅七年二月十七日」と記されるもので、翌霊亀元年(七一五)里は郷と改称される。当郷より、白米(舂米)を貢進した際の付礼である。

物部の名称は、大化前代において、畿内の大豪族物部氏の部民が当地に存在していたことによる。「延喜式」神名帳には、愛智郡に「物部神社」がみえ、尾張国神名帳には「物部天神」と記されるが、この神社は当郷に所在したものと考えられる。

物部郷
ものべごう

「和名抄」高山寺本・東急本ともに「物部」と記し、東急本は「毛乃倍」と訓ずる。「続日本紀」和銅七年(七一四)五月二七日条に「土左国人物部毛虫産三子」、「日本後紀」延暦二四年(八〇五)五月一〇日条に「香美郡少領外従六位上物部鏡連家主」、「類聚国史(人部節婦)大同五年(八一〇)一月二一日条に「香美郡人物部文連全敷女」とみえる人物は、いずれも物部郷の豪族と考えられる。また長岡郡大豊おおとよ豊楽ぶらく寺薬師堂の旧本尊薬師如来の仁平元年(一一五一)八月四日付胎内銘にも物部氏の名が記される。

物部郷
ものべごう

「和名抄」にみえるが、高山寺本・刊本とも訓を欠く。同書に駿河国益頭郡物部郷は「毛乃々倍」(刊本)、近江国栗太郡物部郷は「毛乃倍」(刊本)・「毛乃々倍」(高山寺本)と訓ずる。現綾部市に物部の地名が残り、当地では「ものべ」と称するのでこれに従う。「三代実録」貞観一一年(八六九)一二月八日条に「授(中略)丹波国正六位上物部掃神従五位下」とあるが、「掃神」は郷内の式内社須波伎部すはぎべ神社(現綾部市物部町)のことであろう。

物部郷
もののべごう

「和名抄」所載の郷。駿河国益頭郡・近江国栗太郡などの同名郷の訓注「毛乃々倍」に従う。美濃国は物部の分布が目立つ国である。古くは「国造本紀」にみえる三野後国造が、「志賀高穴穂朝御代、以物部連祖出雲大臣命孫・臣賀夫良命、定賜国造」と物部系を主張している。また「本簀郡栗栖太里」「肩県郡肩々里」「加毛郡半布里」の大宝二年(七〇二)戸籍(正倉院文書)にも、かなりの数の物部氏がみえている。さらに平城宮跡出土木簡には「(表)美濃国厚見郡草田郷」「(裏)物部□□米六斗」とみえ、また天平勝宝二年(七五〇)四月二二日の美濃国司解(東南院文書)にも物部氏の名があり、厚見あつみ草田かやた(皆太)カヤタゴウにも分布していたことが知られる。

物部郷
もののべごう

「和名抄」高山寺本は「毛乃々倍」、東急本は「毛乃倍」と訓ずる。いずれが妥当か決しがたいが、モノヘはモノノヘのつづまったものだから、本来は物部氏をモノノベ氏と読むようにモノノヘであったのではないか。物部氏に率いられた大和王権下の軍事部民物部氏が居住したところからついた郷名であろう。「近江国正六位上物部布津神」の神名がみられるが(「三代実録」元慶六年一〇月九日条)、「布津神」とあることからもわかるように大和国の物部氏と関係することは明白だし、また物部氏の当郷での居住も確認されるから(永治二年五月一七日栗東町金胎寺増長天像銘、永治二年五月同寺阿弥陀如来像銘など)、右の推定でよいと思われる。

物部郷
もののべごう

「和名抄」諸本とも訓を欠く。「延喜式」神名帳に「物部モノノヘノ神社」を載せる。「大日本史国郡志」は「今武士郷武士村、在高津南」とする。「日本地理志料」も武士もののふ郷内の武士・田中たなか荒牧あらまき菅原すがはら棚田たなだ梨平なしだいら(現中頸城郡清里村)長塚ながつか玄藤寺げんどうじ(現同郡板倉町)一帯にあてる。「大日本地名辞書」は近世武士郷といわれた旧菅原すがはら櫛池くしいけ(現清里村)豊原とよはら(現板倉町)の三村をさすとする。

物部郷
もののべごう

「和名抄」諸本にみえる郷名。東急本に「毛乃々倍」の訓がある。郷名は物部氏の分布に由来するか。藤枝市こおり遺跡出土木簡に「物里五(戸カ)宇治角末呂」とみえる。比定地は(一)高草たかくさ山麓の現岡部おかべ町岡部から焼津市石脇いしわき付近とする説、(ニ)現焼津市浜当目はまとうめ付近とする説(大日本地名辞書)、(三)現藤枝市上藪田かみやぶた・中藪田・下藪田・上当間かみどうま・下当間付近とする説などがあるが、(一)の説が妥当か。

物部郷
ものべごう

「和名抄」に記される郷。同書高山寺本をはじめ諸本とも訓を欠くが、諸国の例からモノヘかモノノヘであろう。現ごううら町の壱岐一宮とされた天手長男あめのたながお神社の境内から出土した延久三年(一〇七一)の石造弥勒菩薩坐像銘に「日本国壱岐島物部郷鉢形嶺奉納置如法妙法蓮華経奉籠腹内」とみえ、壱岐国司の佐伯良孝の時代に正六位大掾の若江糸用が天台僧の教因を願主として弥勒菩薩を造立させ(仏師は肥後の慶因)、法華経の写経を納めて鉢形はちがた嶺の経塚に埋納したという。

物部郷
ものべごう

「和名抄」所載の郷で、同書高山寺本など諸本とも訓を欠く。近江国栗太くりた郡物部郷に毛乃々倍(高山寺本)・毛乃倍(東急本)、駿河国益頭郡の同名郷に毛乃々倍(東急本)の訓があるので、モノノヘ、モノヘであろう。「旧事本紀」天孫本紀に饒速日命の一〇世孫の物部印波連公の姉として物部山無媛連公がみえ、当郷に拠点を置いたと想定されている。

物部郷
ものべごう

「和名抄」所載の郷。同書高山寺本にはみえない。東急本は「毛乃倍」と訓ずる。郷域は現洲本市中央部の物部地区一帯であろう。平城宮跡出土木簡に「(表)淡路国津名郡物部里人夫」「(裏)竹野君広嶋(塩カ)□□ 和銅七年□ママ」とある。「三代実録」貞観三年(八六一)一〇月二八日条に、淡路国の浪人である物部冬男が錦織広人を闘殺し遠流に処せられたことがみえる。

物部郷
もののべごう

「和名抄」高山寺本・刊本ともに訓を欠く。各地の同名の郷を「もののべ」あるいは「ものべ」と称す。当郷式内社物部神社(現与謝郡野田川町)を「もののべ」と称し、丹後国御檀家帳にも「いし川のもののゑ」とあるから郷名も「毛乃々倍」とする。古代において郷名の史料を欠くので詳細不明であるが、丹後における物部伝承の最も中心的な地と考えられる。丹後国田数帳に「物部郷少神田 四段七十八歩 御免」とあるのは物部神社神田のことであろう。

物部郷
もののべごう

「和名抄」東急本・刊本に訓はない。高山寺本は郷名の記載を欠く。従来から当郷の記載については誤記説が主張されている。「類聚三代格」元慶四年(八八〇)一一月五日太政官符に磐梨郡について「管郷六」とあるにもかかわらず、「和名抄」東急本が当郷を含めて七郷を記すこと、物部郷と物理もとろい郷の表記が相似していて、物理を物部と誤記した写本もあったため、伝写の間に二つが併記されるに至ったことなどから、高山寺本に当郷名を欠くのが本来の姿を伝えるとみるわけである(「日本地理志料」「大日本地名辞書」「岡山県通史」など)

物部郷
もののべごう

「和名抄」東急本・高山寺本ともに訓を欠くが、同書の他例に倣い「もののべ」と訓じておく。物部とは物部連の管掌下で軍事・警察に携わった部で、「和名抄」には下野・尾張・駿河など一六国に物部郷が記されている。「万葉集」巻二〇には天平勝宝七年(七五五)に筑紫へ差遣された下野国の防人として「火長物部真嶋」の名がみえ、郡名は不明ながらも当郷との関連が推測される。

物部郷
もののべごう

「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、訓を欠く。「太宰管内志」は「毛乃乃倍とよむべし」とし、郷名の由来を「物部の居たる処にて負せたるべし」と記し、物部の居住地であったとする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報