益頭郡・益津郡(読み)ましずぐん・ましづぐん

日本歴史地名大系 「益頭郡・益津郡」の解説

益頭郡・益津郡
ましずぐん・ましづぐん

駿河国の西部南端に位置した郡。古代は益頭郡と書いたが、「拾芥抄」には「益豆郡」とみえる。近世には益津郡と書くが、この変化については中世からの可能性もある。

〔古代〕

和名抄」東急本国郡部に「末志豆」の訓がある。古代には現焼津市および藤枝市岡部おかべ町の各一部が郡域と考えられる。郡名は日本武尊伝承のなかにみえる「焼遺」(「古事記」景行天皇段)、「焼津」(「日本書紀」景行四〇年是歳条)とかかわる地名か。「和名抄」に西刀せと沢会さわい朝夷あさひな飽波あくなみ八田やた物部もののべ・益頭・高楊たかやなぎ小河こがわ新居にいいの一〇郷がみえる。神亀元年(七二四)一〇月の平城宮跡出土木簡(「平城宮木簡概報」一九―二一頁)に「益頭郡高楊郷中家里他田目里堅魚」とみえ、郡名の初見とされる。天平七年(七三五)一〇月の平城京跡出土木簡(同書三一―二五頁)にも「益頭郡」とみえる。同一〇年度の駿河国正税帳(正倉院文書)には「益頭郡、天平九年定穀肆万肆阡伍伯壱拾参斛陸斗、振入四千六斛六斗九升、斛別入一斗、定肆万肆伯陸拾陸斛玖斗壱升」という記載がある。同一九年九月二六日の勅旨(東大寺要録)によれば、金光明こんこうみよう(奈良東大寺)の食封一千戸のうちに「駿河国百戸益頭郡五十戸、富士郡五十戸」があった。天暦四年(九五〇)一一月二〇日の東大寺封戸庄園并寺用帳(東南院文書)に「益頭郡五十戸料、益頭郷」とあり、東大寺の食封が益頭郡益頭郷にあったと考えられる。一方、「続日本紀」天平宝字元年(七五七)八月一三日条によれば、益頭郡人金刺舎人麻自が「蚕児」(蚕卵)が文字を成した瑞を献上した。同書同月一八日条によれば、蚕児の文字は「五月八日、開下帝釈、標知天皇命百年息」とあり、この瑞により天平勝宝九歳(七五七)を天平宝字元年に改元する。そして金刺舎人麻自を従六位上に叙して二〇疋などを与え、瑞をもって上京した駅使中衛舎人少初位上賀茂君継手を従八位下に叙し、一〇疋を与えている。ここで注意されるのは同書天平宝字元年八月一八日条に「其不奏上国郡司等不恩限」とあり、祥瑞献上に駿河国司や益頭郡司がまったく関与していないことである。そのかわり藤原仲麻呂政権と直接的な結びつきのある中衛舎人が瑞を持ってきた点は、この時の祥瑞献上が仲麻呂政権の政治的意図とかかわるとみてよい。なお当郡と地理的・歴史的に密接な関係にあった志太しだ郡の郡家跡と考えられる現藤枝市の御子みこ遺跡から「中衛」と書かれた墨書土器が出土している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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