片原町(読み)かたはらまち

日本歴史地名大系 「片原町」の解説

片原町
かたはらまち

[現在地名]高岡市片原町

三番さんばん町の東に位置し、南北に延びる両側町で、南は片原横かたはらよこ町。町中をしよ用水(現在は暗渠)が流れ、同用水東方の御旅屋に通じる御子坂みこざか小路に木戸があった(不歩記)。当初風呂屋が多かったが、加賀金沢近在から移住が進み、風呂屋を千保せんぼ川右岸に移したのち町立てされたという。また町名は当初湶分あわらぶんの請地があったので片湶かたあわら町と称したが、のち五ヶ所用水の西側が町屋で、東側は武家屋敷裏の林野草原であったことから片原町と改称したという(高岡町由緒聞書)。元禄一二年(一六九九)の片原町絵図(高岡市立中央図書館蔵)によると、五ヶ所用水西側に妙国みようこく寺と屋敷四四軒、東側には当町から片原中島かたはらなかじま町にかけて本陽ほんよう寺・本光ほんこう寺・宗円そうえん寺と屋敷三六軒が並ぶ。

片原町
かたはらまち

[現在地名]高松市片原町・百間町ひやつけんまち通町とおりまち

常磐ときわ橋の南詰から外堀に沿って東へ向かう志度しど街道・長尾ながお街道南側の町人町。東は通町二丁目、西は丸亀まるがめ町を挟んで兵庫ひようご町と対する。生駒氏時代屋敷割図に「かたはら町」とあるのが町名の初見で、築城当初からあった町人町である。高松城下図屏風には、通り北側の外堀沿いに掛小屋が点在し、南側に町屋二〇余軒が並んでいる。

片原町
かたはらまち

[現在地名]今治市片原町かたはらちよう一―四丁目

慶長八年(一六〇三)藤堂高虎の町割によってつくられた町で、今治八町の一つ。城下町の東端に位置し、海岸に面した片側の町並であったため片原町と名付けられた。元禄一二年(一六九九)の片原町寸間改帳によると、三丁目まであり、各丁長さ六〇間、奥行一五間で、伊方いかた屋・魚島うおしま屋・宮窪みやくぼ屋・余所国よそくに屋など島方の村名を屋号とする店が多い。

片原町
かたはらまち

[現在地名]柳川市片原町

札辻本ふだのつじほん町の南端から西に折れた、つじ門外の東西の通りに沿った地域。西端は瑞松ずいしよう院門前に至る。町人地。通り南が堀に面する片側町。道幅は三間余、長さは四三間余、瑞松院門前は長さ二九間余(柳川惣町図)。元和六年(一六二〇)の立花宗茂の柳川再封の際、かねてから宗茂に通じていた浪人坂巻平兵衛(宗元)がこの地を与えられて居を構え、のち坂巻家は代々年行事を勤めた(柳河明証図会)。元禄一四年(一七〇一)四月二〇日の大火により、当町は残らず焼失した(「出火記録」伝習館文庫)。幕末に当町出身の平の川が大坂相撲に入り、大関となっている(旧柳川藩志)

片原町
かたはらまち

[現在地名]高山市片原町

安川やすかわ通の南、みや川右岸のなか橋と鍛冶かじ橋の間に位置し、町の長さ三町一一間(寛政元年「高山三町村覚帳」高山市立郷土館蔵)三之町さんのまち村に所属し、北と東は三之町、南は神明しんめい町、西は宮川を挟んでむかい町。元禄七年(一六九四)の検地によれば屋敷五反余・分米五石四斗余、屋敷持数五九・家数六一(同八年「三之町村屋舗検地帳」同館蔵)。商人や諸職人の居住地で(飛騨国中案内)、安川通で宮川に架かる鍛冶橋の名は、当町から三之町にかけて鍛冶職が多く住んだため昔は安川通を鍛冶屋町といったのによると伝える(高山市史)

片原町
かたはらまち

[現在地名]上野市片原町

上野天神(現菅原神社)の南横にある片側だけの町。江戸時代初期にはひがし町とともにうえ(野)ほん町といわれたと思われる。三筋みすじ町への出入りの警備のため、天神裏に片原町番所があったが、番人は常駐でなかったようである。一〇軒たらずの小町であったが、内神屋六太夫(姓窪田)・猪田屋又五郎(姓服部)といった豪商がいた。猪田屋は京都に多くの貸屋を有し、家業の呉服の仕入代金は家賃で支払ったといわれる。

片原町
かたはらまち

[現在地名]富山市砂町すなまち石倉町いしくらまち中央通りちゆうおうどおり二丁目

東四十物ひがしあいもん町に直交する南北の町並で、北陸街道(巡見使道)に沿う。北端付近を北東に折れるとすな町、北進すると川端かわばた町。本町のうち。万治年間富山旧市街図にはみえるが、寛文六年(一六六六)の御調理富山絵図には記載がない。安永八年(一七七九)の本家数二一・貸家数三二(「町方旧記抜書」前田家文書)。天保一二年(一八四一)の富山町方旧事調理によれば竈数一九、男四二・女四六の小さな町。

片原町
かたはらまち

[現在地名]檜山郡江差町字愛宕町あたごちよう

近世から明治三三年(一九〇〇)まで存続した町。海岸沿いの道に沿う縦街十町の一(「蝦夷日誌」二編)詰木石づみきいし町の北、江差町場のうち最北部に位置し、北はとまり村。文化四年(一八〇七)の江差図(京都大学文学部蔵)には詰木石町の北に続く町場を片原町とし、近くの山の中腹に愛宕社が描かれている。「蝦夷日誌」(二編)によると、本通り沿いだが山の片側にあり、漁師が居住。この辺りの浜は岩磯で海藻が多く、鰊が群来する頃には無双の大漁場であった。

片原町
かたはらまち

[現在地名]久留米市城南町じようなんまち中央町ちゆうおうまち

八百屋やおや町の北にあり、町並は南北に連なり、東は久留米城下外濠に面する。町名は南側にのみ町屋があったことによる。元和元年(一六一五)から当地に定着した紙屋は、のち造酒と御領中薬種店丸散裁判を許された(旧家由緒書)。延宝城下図に片原町とある。元禄九年(一六九六)の白石火事では全焼(米府紀事略)。「啓忘録抜萃」では町別当井筒屋掛に属し、家数二六軒・小間数一〇三間。享保一一年(一七二六)の田代火事では町の三分の一が焼失(米府紀事略)

片原町
かたはらちよう

[現在地名]松江市片原町

京橋きようばし川南岸に沿った東西に長い町人町。西は末次すえつぐ町、南は末次町町・ちや町、東は末次本町。対岸の殿との町・内中原うちなかばら町境になか(「雲陽大数録」では長さ一三間半・幅二間)が架かる。堀尾時代城下図では町屋となっており、延享城下図においても変化はない。

片原町
かたわらまち

[現在地名]福井市春山はるやま一―二丁目・順化じゆんか一―二丁目

福井城外堀の西側にあり、南北に延びる片側町。慶長年間北庄四ツ割図では東片原ひがしかたわら町と記され、家数二〇。貞享二年(一六八五)福居御城下絵図には片原町、正徳三年(一七一三)の福井城下之図では上下の二町に分れる。ただし、同年頃の御城下惣町間数帳は「片町」と記す。また万治二年(一六五九)の大火後、寺院が他へ転出した跡地に新片原町が成立、のち新片町と称した。

片原町
かたはらまち

[現在地名]加賀市大聖寺片原町だいしようじかたはらまち

きよう町の一筋北の道に面した片側町。寛永年間(一六二四―四四)の大聖寺町家図(伊東家蔵)に「片原町」とみえる。天明六年(一七八六)の大聖寺絵図によると八間道はちけんみちの大井・一色の重臣屋敷の前から東に延びる道の南側だけに家並があり、西端は京町の豪商吉崎屋の裏口で、東側にはのちになが町・法華坊ほつけぼうと移転していった福田ふくだ町の毫摂ごうしよう寺があった。

片原町
かたはらまち

[現在地名]柳川市沖端町おきのはたまち

田代たしろ町通から南へ続き、東へ折れる通りを中心とした町。南は八幡やはた町へ続く。通りの東側は御花畠おはなばたけ(現御花)の西を流れる城堀に面し、片側町であった。寛政二年(一七九〇)の沖端町絵図に町名がみえる。年不詳の柳川城下絵図・沖端南部(九州大学附属図書館六本松分館蔵檜垣文庫)には、八幡町通との境に火番所と木戸が描かれている。

片原町
かたはらちよう

上京区七本松通五辻下ル

千本釈迦せんぼんしやか(大報恩寺)の南にあり、東西に通る五辻いつつじ通と今出川いまでがわ通の間。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図をはじめ多くの絵図には「釈迦片原町」とみえ、この呼称が一般に用いられていた。慶安五年(一六五二)平安城東西南北町並之図に「釈迦堂前の町」、また「京町鑑」に「藪の下町」ともあるが、明治二年(一八六九)現町名が公称となった。

片原町
かたはらまち

[現在地名]会津若松市御旗町おはたまち

河原町新かわらまちしん(出来新町)の西に並び、長さ一町二二間・幅三間余。もとは高久組西柳原にしやなぎわら村と幕内まくのうち村の端村であったが、元文二年(一七三七)小黒川おぐろがわ分に属したという。

片原町
かたひらちよう

[現在地名]赤穂市加里屋かりや

花岳かがく寺東側の塀沿いの南北の通りの突当りまで四六間の西面する片側だけの町。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報