熊野堂村(読み)くまのどうむら

日本歴史地名大系 「熊野堂村」の解説

熊野堂村
くまのどうむら

[現在地名]名取市高館熊野堂たかだてくまのどう

北流する名取川南岸の丘陵地帯を占め、対岸は富田とみた村・山田やまだ(現仙台市)、東は柳生やなぎう(現同上)、南は吉田よしだ村に接する。村名は名取熊野三社のうち熊野本宮社・熊野新宮社が鎮座していたことによる。大永六年(一五二六)二月二九日の伊達稙宗安堵状案(伊達家文書)によれば、真常院よりの売地「名取熊野堂堀内郷八口、并よからの外記助在家一宇不残」の五貫文の地が中野上野守に安堵されている。これらの小地名のうち「八口」は東方の字八ッ口やつくちで、天文一一年(一五四二)と推定される六月二六日付伊達晴宗安堵状案(同文書)にみえる「名取之内やかくち之分一宇」も同所をさすものか。また「よから」は北方名取川南岸の字余方よかたで、天文七年の段銭古帳では「与から」とあり段銭四貫文。同一三年四月二一日には訴えにより「よからの村之内、たか森分さいけ仁けん」が福田玄番允へあて置かれた(「伊達稙宗領知充置状」同文書)

熊野堂村
くまのどうむら

[現在地名]春日居町熊野堂

加茂かも村の西に位置し、平等びようどう川が村内を西流する。枝郷に高畑大野馬場おおのばばがある(享保九年村明細帳)。天正九年(一五八一)九月二日の武田家印判状写(甲斐史料集成稿)に「熊野堂」とみえ、同地の次郎右衛門が御肴調進により棟別銭一間分を免許されている。慶長古高帳では高四四八石余、幕府領ほかに熊野領二石余がある。領主の変遷は桑戸くわど村に同じ。慶長一〇年(一六〇五)検地帳(県立図書館蔵)によると、反別は麦田一二町九反余・上田三町九反余・中田一町七反余・下田二反余・下々田一畝余、麻畑一反余・上畑一町五反余・中畑二反余・下畑一反余・下々畑五畝余で、桑一八二抱余および屋敷一町一反余。

熊野堂村
くまのどうむら

[現在地名]河東町熊野堂

北西は大和田おおわだ村とその端村町和田まちわだ分、西は代田よだ村。本村の南東に小名近藤こんどう(金道分)北東に端村北高野きたこうやがある。村の北東の田圃の中に、打替うちかえ山とよぶ低い台地があり、ここに天喜三年(一〇五五)源頼義・義家父子が熊野三社を勧請したので村名が生れたと伝える。熊野三社はその後耶麻郡新宮しんぐう(現喜多方市)に遷宮したという。昭和五三年(一九七八)南東の南原みなみはら地内の南原遺跡の発掘調査が行われ、竪穴式住居跡三ヵ所を中心に、縄文式や弥生式の土器や古墳時代の墨書銘土器と円面硯などが発見された。

熊野堂村
くまのどうむら

[現在地名]いわき市常磐じようばん白鳥町しらとりまち

藤原ふじわら川中流に位置し、磐前いわさき郡に属した。近世の領主の変遷は磐城平藩領から寛文一〇年(一六七〇)以降湯長谷藩領。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録では磐前郡のうちに北熊野堂があり、高四五石余、菊多きくた郡のうちに南熊野堂村があり、高四六石余。

熊野堂村
くまのどうむら

[現在地名]神川町熊野堂

上真下かみましも(現児玉町)の西に位置し、南から西は賀美かみ八日市ようかいち村。元禄年中改定図(風土記稿)に初めて村名がみえる。同書は「八日市村ニ熊野ノ社アリ、且地境モ相接シタレハ、是等ヲモテ村名トモナシタランニハ、当時八日市村内ノ地ナルニヤ」と記し、八日市村から分村したと推測している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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