磐前郡(読み)いわさきぐん

日本歴史地名大系 「磐前郡」の解説

磐前郡
いわさきぐん

磐崎いわさき岩崎いわがさき郡とも書く。「和名抄」には磐城郡菊多きくた郡があるが、磐前郡はみえない。平安時代後期に磐城郡が磐城郡・磐前郡・楢葉ならは郡・好島よしま庄の三郡一庄に分割されたと考えられる。時代によって領域は異なり、鎌倉時代は北は好島庄、南は磐城郡に接し、東は太平洋に面する。現いわき市の中心部を占める。

〔中世〕

「吾妻鏡」文治五年(一一八九)七月一七日条に「東海道大将軍、千葉介常胤、八田右衛門尉知家、各相具一族等并常陸、下総国両国勇士等、経宇太・行方、廻岩城岩崎、渡遇隈河湊、可参会也」とある。同書建久元年(一一九〇)正月八日条によれば、藤原泰衡の郎従大河兼任の反乱に際し「東海道岩崎輩」は海道大将軍千葉介常胤の下向を待たずに「先登」を進むことを申請し、源頼朝の御感をこうむったという。岩崎氏はこの年以前に本領を安堵されていたと思われる。岩城家譜(寛政重修諸家譜)に、海東小太郎成衡の長男楢葉太郎隆祐・次男岩城次郎隆衡・三男岩崎三郎隆久・四男標葉四郎隆義・五男行方五郎隆行とあり、国魂系図(国魂文書)には岩城二郎忠清・岩崎三郎忠隆とある。「太平記」巻三(笠置軍事付陶山小見山夜討事)によれば、元弘の乱に際して鎌倉から派遣された諸将のなかに岩城次郎入道・岩崎弾正左衛門・高久孫三郎・同彦三郎ら岩城一族の面々がみえ、岩城・岩崎両氏が鎌倉幕府の御家人としてともに有力な地位を占めていたことを物語っている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報