源頼義(読み)ミナモトノヨリヨシ

デジタル大辞泉 「源頼義」の意味・読み・例文・類語

みなもと‐の‐よりよし【源頼義】

[988~1075]平安中期の武将。頼信長男平忠常の乱で父に従って戦功をあげ、前九年の役では鎮守府将軍として安倍氏を討ち、東国における源氏の勢力を強めた。

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精選版 日本国語大辞典 「源頼義」の意味・読み・例文・類語

みなもと‐の‐よりよし【源頼義】

平安中期の武将。頼信の長男。武略に富み、将帥の器をもち、坂東の士が多く門客となった。前九年の役に陸奥守となり、子義家とともに東国の士を率いて、前後一三年にわたって苦戦を重ねたが、清原武則の援を得て平定。永延二~承保二年(九八八‐一〇七五

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百科事典マイペディア 「源頼義」の意味・わかりやすい解説

源頼義【みなもとのよりよし】

平安中期の武将。源頼信の子。陸奥守兼鎮守府将軍。武芸に秀で,坂東武士の多くを門客として組織。陸奥(むつ)の安倍頼時・貞任(さだとう)・宗任(むねとう)が反乱を起こしたとき,10余年にわたって苦戦を重ねたが,出羽(でわ)の清原氏の援護を得て鎮圧に成功。この戦を通じて東国の源氏の地位を確立。→安倍貞任前九年・後三年の役
→関連項目安倍宗任安倍頼時多賀城鶴岡八幡宮陸奥話記横山党

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改訂新版 世界大百科事典 「源頼義」の意味・わかりやすい解説

源頼義 (みなもとのよりよし)
生没年:988-1075(永延2-承保2)

平安中期の武将。源頼信の長男。母は修理命婦(しゆりみようぶ)。武芸にすぐれ,平忠常の乱には父に従って坂東に下向,〈勇決群を抜き,才気世を被う〉と称賛されたという。相模守として在任中,弓馬の士でその門客となる者が多く,東国武士を主従関係のもとに組織した。1051年(永承6)陸奥守,53年(天喜1)鎮守府将軍を兼ねる。当時陸奥に勢力をふるい代々の国司に反抗していた安倍頼時は頼義の着任と同時に帰順,しかし頼義の任期が満ちると56年,両者の間に争いが起こった。そのため朝廷は頼義に安倍氏追討を命じ陸奥守に再任。翌57年,安倍頼時は討たれたが子の貞任(さだとう),宗任(むねとう)が頑強に抵抗,62年(康平5)清原武則の援を得て頼義はようやく貞任を討ち,宗任を捕らえて乱を平定した(前九年の役)。63年戦功により正四位下伊予守となる。この戦いを通じて東国における源氏の地位が確立された。同年8月相模由井郷に石清水(いわしみず)八幡宮勧請(かんじよう)(鶴岡八幡宮の起源)。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「源頼義」の意味・わかりやすい解説

源頼義
みなもとのよりよし
(988―1075)

平安中期の武将。頼信(よりのぶ)の子。1031年(長元4)父に従い、平忠常(ただつね)の乱を鎮定した。小一条院(こいちじょういん)(敦明(あつあきら)親王)の判官代(ほうがんだい)として仕え、功により36年相模守(さがみのかみ)となり、東国の武士を従えた。51年(永承6)陸奥(むつ)の安倍頼時(あべのよりとき)(頼良(よりよし))が背くと、頼義は陸奥守として鎮撫(ちんぶ)に赴いた。頼時は降服し、53年(天喜1)頼義は鎮守府将軍となったが、56年に頼時はふたたび反乱を起こした。翌年、頼義は頼時を討ったが、頼時の子貞任(さだとう)を中心とする安倍氏の抵抗の前に苦戦し、出羽(でわ)の清原(きよはら)氏の援助を得て62年(康平5)やっと貞任を討ち、安倍氏を滅ぼし(前九年の役)、その功により翌年、正四位下、伊予(いよ)守となった。妻は平直方(なおかた)の娘。

[上横手雅敬]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「源頼義」の意味・わかりやすい解説

源頼義
みなもとのよりよし

[生]永延2(988)
[没]承保2(1075).7.13.
平安時代中期の武将。頼信の長子。長元3 (1030) 年平忠常の乱平定のため父とともに上総に下り,勇名をはせ平直方の婿となった。相模守,常陸介を歴任。永承6 (51) 年安倍氏の謀反鎮定のため陸奥守となって赴任し,安倍頼時を帰服させた。天喜1 (53) 年鎮守府将軍を兼ね,同4年頼時の子貞任が襲撃をかけたとの噂に怒って,再び戦いとなり,任期終了後も重任して戦闘を続けた。康平5 (62) 年出羽の清原光頼,武則の来援を得て,安倍氏を降伏させ,乱 (→前九年の役 ) を平定,その功により正四位下伊予守となった。翌年石清水八幡を鎌倉由比 (ゆい) 郷に勧請し,源氏の氏神とした。

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朝日日本歴史人物事典 「源頼義」の解説

源頼義

没年:承保2(1075)
生年:永延2(988)
平安後期の武将。河内源氏の祖頼信の子。没年には異説がある。一時期,小一条院(敦明親王)に仕え都での生活を送ったが,地方での働きが大きい。平忠常の乱(1028)では父に従って追討し,前九年の役(1051~62)では陸奥守兼鎮守府将軍として子義家と共に「俘囚」の長安倍頼時の反乱を長年月にわたる苦戦のすえ鎮定し,勇名をとどろかせた。このときの精鋭は父以来の,また自ら相模,武蔵守などを務めた際結びつきを深めた坂東武士たちであった。冷静沈着にして武略に長け将の器という評や武勇談は『陸奥話記』に詳しい。父と共に11世紀中期に菩提寺通法寺(羽曵野市)を開く。国史跡に指定されたその寺跡に墓がある。

(朧谷寿)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「源頼義」の解説

源頼義
みなもとのよりよし

988~1075.10.12

平安中・後期の武将。頼信の長男。母は修理命婦(しゅりのみょうぶ)。1031年(長元4)父とともに平忠常の乱を鎮圧。東国の国司を歴任,在地武士の組織化を進めた。51年(永承6)陸奥守,53年(天喜元)鎮守府将軍となり安倍氏と対立,前九年の役を起こす。清原武則の応援をえて平定し,東国における源氏の地位を確立。相模国由比郷(現,神奈川県鎌倉市)に石清水八幡宮を勧請し,鶴岡八幡宮の起源とした。平直方の女婿となり,鎌倉の屋敷を譲られた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「源頼義」の解説

源頼義 みなもとの-よりよし

988-1075 平安時代中期の武人。
永延2年生まれ。源頼信の長男。永承6年(1051)安倍頼時の乱に陸奥守(むつのかみ)として派遣され,ついで鎮守府将軍をかねる。子の義家とともに12年をかけて鎮定(前九年の役),東国に源氏の基盤をきずいた。功により正四位下,伊予守(いよのかみ)となる。承保(じょうほう)2年7月13日死去。88歳。

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旺文社日本史事典 三訂版 「源頼義」の解説

源頼義
みなもとのよりよし

988〜1075
平安中期の武将
頼信の長男。名将の誉れ高く,1031年,父とともに平忠常の乱を平らげ,陸奥守のとき前九年の役(1051〜62)で安倍頼時父子を討ち,源氏の基盤を東国に固めた。また鎌倉に石清水八幡宮を勧請し,源氏の氏神とした。

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世界大百科事典(旧版)内の源頼義の言及

【前九年の役】より

…1056年(天喜4)から62年(康平5)まで,陸奥守兼鎮守府将軍源頼義と陸奥国の安倍氏の一族との間で戦われた戦乱。古くは源頼義が陸奥守になった1051年(永承6)から62年までの12年間を乱の期間と見て,奥州十二年合戦といわれていた。…

【鶴岡八幡宮】より

…旧国幣中社。1063年(康平6)源頼義が安倍貞任を追討する際戦勝祈願をした石清水(いわしみず)八幡宮を由比郷に勧請したのが始まりで,その子義家は81年(永保1)修復を加えるとともに小林郷に移した。その後1180年(治承4)平氏打倒の旗印をかかげて伊豆に蜂起した頼朝は同宮を小林郷北山の地に遷した。…

※「源頼義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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