清原氏(読み)きよはらうじ

改訂新版 世界大百科事典 「清原氏」の意味・わかりやすい解説

清原氏 (きよはらうじ)

天武天皇皇子舎人(とねり)親王の後裔氏族。姓は真人。798年(延暦17)の友上王・長谷王への賜姓を初例として200名近くの例が国史にみえる。系図類には4系統が記されているが,御原王系と貞代王系が著名である。御原王の孫清原夏野は右大臣となり,《令義解》《日本後紀》の編纂をはじめ,多方面に活躍し,平安初期の政治を指導した一人であった。しかし以後はふるわず,中下級貴族層として定着するが,平安中期に貞代王系の深養父(ふかやぶ),その子(孫とする説もある)元輔歌人として活躍,その文学的環境の中に清少納言を生む。また1004年(寛弘1),海宿禰(あまのすくね)から改姓した広澄以下の系統があり,代々明経道(みようぎようどう)の儒職と外記とを兼務し,行政の実務に携わった。さらに出羽俘囚ふしゆう)の長として勢力をふるった清原氏があるが,これはその地の豪族の俘囚の長が,現地に赴いた清原氏の一族とかかわりをもち,清原姓を名乗るようになったものと思われる。
奥州藤原氏
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「清原氏」の意味・わかりやすい解説

清原氏
きよはらうじ

奥羽から九州まで広く分布する氏で、だいたいは天武天皇(てんむてんのう)の後裔(こうえい)を称す。804年(延暦23)6月小倉(おぐら)王が上表して清原真人(まひと)賜姓を求め許され、以後六国史(りっこくし)に天武系諸王への清原真人賜姓の記事がしばしばみられる。これら清原真人のなかでもっとも傑出しているのが小倉王の男夏野(なつの)で、淳和天皇(じゅんなてんのう)の寵(ちょう)を被り、従二位(じゅにい)右大臣兼左大将となっている。清原氏の出自、系図を示すものに『本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)』「清原氏系図」および『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』がある。一条天皇の後宮で活躍した女流文学者清少納言(せいしょうなごん)も清原氏の出身で、肥後守(ひごのかみ)元輔(もとすけ)の女(むすめ)である。前九年・後三年の役で有名な清原光頼(みつより)・武則(たけのり)らも「清原氏系図」に天武裔となっているが、十分な信憑(しんぴょう)性があるとはいえないようである。

森田 悌]


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山川 日本史小辞典 改訂新版 「清原氏」の解説

清原氏
きよはらうじ

(1)天武天皇の皇子舎人(とねり)親王の後裔氏族。姓は真人(まひと)。791年(延暦10)長谷(はせ)(舎人親王の曾孫)が清原真人を賜ったのが初例。以後,清原真人賜姓記事は国史に数多く散見。数種の「清原氏系図」が伝世するが,個々の系譜は判別しにくい。平安初期の政治家として「令義解(りょうのぎげ)」の編纂者で右大臣の夏野(なつの),蔵人頭(くろうどのとう)・参議の岑成(みねなり)らがおり,平安中期には歌人として深養父(ふかやぶ)や元輔(もとすけ)(三十六歌仙の1人),「枕草子」の清少納言がみえる。(2)一方,明経(みょうぎょう)道を家学とした広澄(ひろずみ)系清原氏は,外記(げき)局の局務を世襲するようになる。(3)また11世紀出羽で勢力をもった豪族清原氏があるが,中央の清原氏との関係については諸説あり不詳。

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旺文社日本史事典 三訂版 「清原氏」の解説

清原氏
きよはらうじ

①平安初期の皇族賜姓 (しせい) の一つ
②平安時代の出羽国の豪族
学問の家柄。天武天皇の皇子舎人 (とねり) 親王の子孫。2系統あり,804年御原王 (みはらのおう) 系の夏野 (なつの) が,850年貞代王 (ざだよのおう) 系の有雄が清原真人 (まひと) の姓を賜る。夏野は『令義解』の編纂者として著名。清少納言は,貞代王系に連なる。
代々俘囚 (ふしゆう) の長で,武則 (たけのり) のとき,前九年の役に功あり,以後奥羽地方で勢威をふるったが,のち一族の内紛から後三年の役を誘発,源義家の介入を招いた。武則の養子清衡以後,藤原氏を称した(奥州藤原氏)。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「清原氏」の意味・わかりやすい解説

清原氏
きよはらうじ

天武天皇の皇子舎人 (とねり) 親王の後裔。その姓 (かばね) は真人 (まひと) 。平安時代に夏野,有雄,清少納言らの文人を出した。平安時代後期の頼業が博学の誉れ高く,代々外記 (げき) をつとめ,明経道 (みょうぎょうどう) を家学とする。のち船橋,五条氏などに分れた。

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世界大百科事典(旧版)内の清原氏の言及

【紀・清両党】より

…下野国一宮二荒山(ふたらやま)神社(俗に宇都宮大明神)に奉仕した紀氏,清原氏の子孫。とくに鎌倉~南北朝期,同神社座主宇都宮氏に従属して活躍した武士団の一つ。…

【久利氏】より

…中世石見の国人領主。本姓は清原氏で,平安末期以後石見国邇摩(にま)郡久利郷を領し,久利氏を称した。清原氏と久利郷とのかかわりを示す史料的初見は,1063年(康平6)清原頼行を久利郷司職に補任した石見国司庁宣で,以後清原氏は久利郷をはじめ,仁満,雨(天)河内,佐摩各郷を領有した。…

【外記】より

…外記の上首を局務(きよくむ)という。平安時代の半ば以降,大外記は清原氏・中原氏の2氏が世襲した。【早川 庄八】。…

【後三年の役】より

…1083年(永保3)から87年(寛治1)まで,陸奥守源義家と清原一族の間で戦われた乱。清原氏ははじめ出羽国仙北3郡の豪族であったが,前九年の役のあとで安倍氏の旧領の奥6郡をあわせて,奥羽最大の勢力になった。しかしその一族内部には複雑な対立が存在した。…

【五条家】より

…同族に南北朝のころに分かれた東坊城氏,江戸初期に分かれた清岡・桑原両氏がある。(2)は清原氏の支流,清原良枝の子頼元を始祖とする。五条氏【川田 貞夫】。…

【氷室】より

…また同注進状には,徳岡,松崎など山城の9ヵ所の氷室をはじめ,大和の都介,河内の讃良,丹波の神吉の氷室を挙げ,《延喜式》の地名と多少相違するものもあるが,おおよそ式の制度を引き継いでいると思われる。しかし氷戸制は律令体制の衰退とともに消滅し,鎌倉初期以降主水正を世襲した清原氏が,目代-預-供御人の系列を組織化し,各氷室に付属する氷室田を含めて,諸役免除,一円進止の禁裏御料所と称して知行した。これは宮内省大炊寮の御稲田(みいねだ)の知行形態に似ており,御稲田とともに室町時代末まで存続したことは,主水正目代の職にあった中原康富の日記《康富記》や広島大学所蔵《猪熊文書》所収の氷室文書などによって確認できる。…

【舟橋家】より

…清原氏の嫡流。船橋とも書く。…

※「清原氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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