安倍宗任(読み)あべのむねとう

精選版 日本国語大辞典 「安倍宗任」の意味・読み・例文・類語

あべ‐の‐むねとう【安倍宗任】

平安後期の武将。頼時の子。貞任の弟。鳥海(とりのみ)三郎と称する。父、兄とともに朝廷にそむき、追討軍と戦う。降伏して伊予に流され、さらに大宰府に移されたという。娘は奥州藤原氏二代目の基衡の室、秀衡の母。歌舞伎奥州安達原」などの題材となる。生没年未詳。

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デジタル大辞泉 「安倍宗任」の意味・読み・例文・類語

あべ‐の‐むねとう〔‐むねたふ〕【安倍宗任】

平安中期の陸奥の豪族。頼時の子。貞任の弟。鳥海三郎ともいう。前九年の役源頼義義家父子と戦い、降伏して伊予に流刑。生没年未詳。

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改訂新版 世界大百科事典 「安倍宗任」の意味・わかりやすい解説

安倍宗任 (あべのむねとう)

平安中期の陸奥国の豪族。生没年不詳。安倍頼時の子。貞任(さだとう)の弟。鳥海(とりうみ)三郎という。陸奥守源頼義と安倍氏とが戦った前九年の役のさいには,兄貞任とともに頼義と戦った。1062年(康平5)叔父の僧良照とともに小松柵において源頼義・清原武則らと戦って敗れ,ついで本拠鳥海柵(岩手県胆沢郡金ヶ崎町)を戦わずして捨て,兄貞任の厨川柵に立てこもった。同年9月17日の厨川柵落城のさいには傷をうけ,いったんは城を捨てて逃れたが,数日後に一族のものなど9人とともに降参した。64年源頼義に引きつれられて上京し,伊予国に流されたが,67年(治暦3)には九州の大宰府に移された。その娘は後に奥州藤原氏2代目の藤原基衡の妻となり,平泉の地に観自在王院を建立した。
安倍貞任
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「安倍宗任」の意味・わかりやすい解説

安倍宗任
あべのむねとう

生没年不詳。平安後期、奥羽の武将。安倍頼時(よりとき)の子、貞任(さだとう)の弟。鳥海(とりうみ)三郎と称し、鳥海柵(とりうみのき)(岩手県金ヶ崎町)を守ったが、これは胆沢(いさわ)川を挟んで、胆沢城のどを扼(やく)する要衝(ようしょう)であった。前九年の役(1051~1062)では、兄貞任と並んで、安倍軍抵抗の指揮をとったが、厨川柵(くりやがわのき)(盛岡市)の戦いに敗れて降伏し、捕虜として都に上せられ、のち九州に配流となった。都に上ったとき、梅の花を示し「宗任、これはいかに」ときく公家(くげ)に、「我が国の梅の花とは見たれども、大宮人はいかがいふらん」と答えたという伝えは、有名である。

[高橋富雄]

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百科事典マイペディア 「安倍宗任」の意味・わかりやすい解説

安倍宗任【あべのむねとう】

平安後期陸奥(むつ)の武将。生没年不詳。頼時の子,安倍貞任(さだとう)の弟。前九年(ぜんくねん)の役で,父兄とともに源頼義と戦ったが,1062年厨川(くりやがわ)で敗れて京都に連行され,さらに伊予(いよ)から大宰府に移され,のち出家して筑紫(つくし)に住んだという。
→関連項目前九年・後三年の役

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「安倍宗任」の意味・わかりやすい解説

安倍宗任
あべのむねとう

平安時代中期の武将。頼時の子。貞任の弟。通称鳥海三郎。前九年の役で父兄とともに源頼義と戦い,胆沢 (いざわ) 郡鳥海柵 (ちょうかいのき) を本拠として安倍軍の中核をなした。康平5 (1062) 年,厨川 (くりやがわ) の戦いで貞任が敗死すると,宗任は弟家任,則任,正任らとともに頼義に降伏。同7年京都に連行され,伊予に配流されたが,本国へ逃げ帰ろうとする気配があったため,治暦3 (67) 年,大宰府に移された。のち僧となって筑紫に住んだ。松浦党はその後裔であるという。また一説に,配流されないで源義家の従者として仕えたともいう。

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朝日日本歴史人物事典 「安倍宗任」の解説

安倍宗任

生年:生没年不詳
平安中期の陸奥国の武将。胆沢郡(岩手県)鳥海柵を本拠とし,鳥海三郎と称す。前九年の合戦で父頼時に従い,陸奥守源頼義の軍勢と戦う。康平5(1062)年8月,頼義が清原武則の軍勢と合流して北上を開始すると,磐井郡小松柵周辺で迎え撃ち,衣川関が破られると鳥海柵を捨て兄貞任と共に岩手郡厨川・嫗戸柵に立てこもり防戦に努めた。9月17日の落城の際一旦は逃れたが,数日後帰降した。康平7年に伊予国に流され,治暦3(1067)年には陸奥国へ逃亡の恐れありとされて大宰府に移され,のちに出家したようである。その娘は平泉藤原氏2代基衡の妻となり,観自在王院を建立した。

(菅野文夫)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「安倍宗任」の解説

安倍宗任
あべのむねとう

生没年不詳。平安中期の陸奥国の豪族。頼時の子。鳥海(とりのみ)三郎と称する。前九年の役では1057年(天喜5)父の戦死後,兄貞任とともに源頼義と戦い,これを破った。62年(康平5)頼義が出羽国の豪族清原武則・光頼兄弟の援助をうけると形勢は逆転,厨川(くりやがわ)柵(現,盛岡市)の戦で敗れ投降した。64年伊予国に配流され,67年(治暦3)大宰府に移されたという。その後は不明。女は奥州藤原氏の基衡(もとひら)の妻。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「安倍宗任」の解説

安倍宗任 あべの-むねとう

?-? 平安時代中期の豪族。
安倍頼時(よりとき)の子。安倍貞任(さだとう)の弟。陸奥(むつ)の人。前九年の役の天喜(てんぎ)5年(1057)父が戦死したあとも,源頼義(よりよし)の軍とたたかう。康平5年陸奥の厨川柵(くりやがわのさく)の戦いで兄貞任は戦死し,宗任は投降した。伊予(いよ)(愛媛県)に流され,のち大宰府(だざいふ)にうつされた。通称は鳥海三郎。

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旺文社日本史事典 三訂版 「安倍宗任」の解説

安倍宗任
あべのむねとう

生没年不詳
平安中期の陸奥の豪族
頼時の子。前九年の役(1051〜62)で兄貞任とともに戦ったが,貞任敗死後,陸奥守源頼義の軍に降伏。伊予(愛媛県)に配流,のち大宰府に移された。

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世界大百科事典(旧版)内の安倍宗任の言及

【安倍貞任】より

…平安時代の陸奥国の豪族。安倍頼時の嫡子。通称厨川二郎。1056年(天喜4)結婚を拒否されたことを恨んで,陸奥権守藤原説貞(ときさだ)の子光貞・元貞を襲撃し,前九年の役を起こし,陸奥守源頼義らと戦うに至った。57年に父頼時が戦死してからは,安倍一族の総帥となり,同年冬には黄海(きのみ)(岩手県東磐井郡藤沢町)において頼義軍を破った。しかし62年に出羽国の清原氏が頼義軍に加わってからは,小松柵・衣川(ころもがわ)柵・鳥海柵と敗戦がつづき,同年9月17日,本拠の厨川柵(岩手県盛岡市)において敗死した。…

【奥州安達原】より

…安倍の忠臣善知鳥安方が文治と名を変えて,安倍貞任の子の千代童の身を守護している。文治が千代童の薬の代に禁制の鶴を殺したのを見た南兵衛が実は安倍宗任で,文治とは主従の関係。宗任がみずから鶴殺しの科人となり,都に引かれたのは,八幡太郎義家に一矢を報いんがためだった。…

※「安倍宗任」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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