「たがのき」とも読む。宮城県多賀城市に築かれた古代の城柵(じょうさく)。古代の陸奥(むつ)国の国府のあったところで、陸奥・出羽(でわ)両国を管する按察使(あぜち)もおり、奈良時代には、鎮守府(ちんじゅふ)も置かれ、東北地方の政治、軍事および文化の中心をなした。
多賀城の創建年代ははっきりしないが、737年(天平9)に初めて史料に「多賀柵」とみえ、「多賀城」として現れるのは780年(宝亀11)の伊治呰麻呂(いじのあざまろ)の乱のときである。この反乱で、多賀城も攻め落とされ、放火された。さらに、869年(貞観11)の陸奥国大地震では、大きな被害を被っているようである。なお、802年(延暦21)胆沢(いさわ)城造営とともに、鎮守府は多賀城から胆沢城へ移された。その後、前九年・後三年の役および源頼朝(よりとも)の奥州藤原氏征討のときには、「多賀国府」とみえる。中世においても、鎌倉幕府の陸奥国留守職(るすしき)が、南北朝には陸奥の将軍府が置かれている。特別史跡は、多賀城市大字市川・浮島の地にあり、仙台平野の北東端に位置し、海抜20~50メートルの丘陵の先端部の一画を占めている。周囲は約900メートル四方の不整方形に築地(ついじ)が巡り、その中央部には約100メートル四方の政庁がある。政庁は5回の建て替えが行われているが、全体の規模や整然とした建物の基本的な配置は変わらない。外郭内地域の調査も進み、多くの役所の建物跡が検出されている。遺物のなかでは、全国で初めて発見された漆紙文書(うるしがみもんじょ)が注目される。なお、多賀城の沿革などを記す有名な多賀城碑(俗に「つぼのいしぶみ」とよぶ)が外郭南門跡付近にある。
[平川 南]
『宮城県多賀城調査研究所編『多賀城跡――政庁跡図録編』『多賀城跡――政庁跡本文編』(1980、82・宮城県文化財保護協会)』▽『桑原滋郎編「多賀城跡」(『日本の美術 213』1984・至文堂)』
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…古代では,これらの紙は役所の公文書であることが多く,その資料的価値は高い。1978年に古代東北地方の政治,軍事の中心であった多賀城の遺跡(宮城県多賀城市)ではじめて発見され,全国的に注目された。温暖多湿な日本では紙が地中に遺存することはまれであり,今まで古代の紙が地中から出土した例は,経塚(きようづか)に埋納された経巻程度である。…
…しかし〈鎮所〉は鎮守府の存在と密接に関連した呼称であるが,本来正式な機関名としての鎮守府とは同列に置いて比較すべき用語ではない。鎮守府ははじめ,多賀城に置かれた。759年(天平宝字3)には将軍以下の俸料(ほうりよう)と付人の給付が陸奥の国司と同じと決められた。…
…北から東,南東部まで陸奥国に接し,陸奥国とともに奥羽(おうう)と総称され両国の一体関係は強かった。政治的には721年(養老5)以来陸奥按察使(むつのあぜち)の統轄下に属し,軍制上も陸奥多賀(たが)城のちには胆沢(いさわ)城に置かれた鎮守府の指揮下にあった。この地方が史上最初にあらわれるのは,658年(斉明4)越(こし)の国守阿倍比羅夫(あべのひらふ)の北航に際し齶田(あきた∥あいた),渟代(ぬしろ)に郡(評)(こおり)を置いたという《日本書紀》の記事である。…
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